「赤城の子守唄」「国境の町」が大ヒット(1934)

 東海林太郎の代表的な2曲はポリドール契約直後の1934年に生まれている。まず1月8日にレコーディングし、2月に発売した「赤城の子守唄」である。作詞は佐藤惣之助、作曲は竹岡信幸である。国定忠治を題材にした松竹映画の主題歌で、映画よりもこの歌が大ヒットした。作曲家の竹岡信幸(1907-85)は古賀政男の3歳下で、明治大学マンドリン倶楽部の出身である。曲はヨナ抜き短音階、原調はハ短調(Cm)だそうだ。先輩の古賀政男を踏襲しているというか、古賀メロディのような歌謡曲である。現在の演歌と同じ構造だ。

 もう一つの大ヒット曲は、同じ年の12月に発売された「国境の町」である。作詞は大木 惇夫、作曲は阿部武雄。ニ短調(Dm)、行進曲のリズムで、ヨナ抜きではない。歌詞の「国境」は国籍不明だが、「ソリの鈴さえ……」とはじまるので、北方である。満州(中国東北部)のことだろう。柳条湖事件(1931)で関東軍(日本陸軍)が軍事占領し、翌32年3月には日本の傀儡国家である満州国が建国された。日本から企業や市民が次々に満州へ渡った。「国境の町」にはこのような時代背景がある。しかし、北方のロマンチシズムを湛えたなかなか魅力的な歌謡曲ではある。

 この2曲の印象は非常に強く、1970年前後のテレビ番組でかなり聴いた記憶がある。しかし、すでに70歳。30代のような声ではなかったのだ。

 本田美奈子さんは「1曲ずつ研究して、発声法も表現もすべて変えている」と語っているが、東海林太郎も同じようなことを書き残している。

学究肌の流行歌手

「自分の好かない歌がある。普通の場合だったら、歌わなければそれでいい。けれども専属歌手である以上は、頼まれたら歌わなければならない。僕は作品の批評家ではないのである。――勿論自分の希望をのべることはある。そしてそれが採用される場合とされない場合とがある。――かかる場合僕はこれは僕の趣味に合わないなどと断らない。まてよ、一つこれの立派な表現をしてみよう、と僕はその歌曲の研究に没頭するのである」(東海林太郎、前掲書、初出は後援会機関誌「東海林太郎」1939年4月)。

 これは30代の文章だが、70代でもこう語っている。

「わたしは与えられた楽譜の中の魂をどうして引き出すか、それのみを考える。どうしたら、この歌の最後の表現ができるか、生意気な言い方をすれば、どうしたら、人類で最高に歌えるか。けっして自分で最高の表現と思わないで、人類で最高ですよ。だってその歌は、わたしが世界で初めて歌うんだから」(東海林太郎、城山三郎編前掲書、1969)。

 洋楽ポップスも「赤城の子守唄」も徹底的に研究して歌い方を考え、実践するというわけだ。藤山一郎は違う。どのような歌でも、声楽の基本的な歌唱法を元にして、マイクに合う声質をつくり、ほぼ同じような発声となる。1920年代以降、戦前の流行歌手は音楽学校で声楽を学んだ人が多く、したがって大半は藤山のようなアプローチである。東海林太郎のような表現にはならない。クラシックに近い歌い方で流行歌も歌うわけだ。

 東海林太郎は音楽学校出身者ではない。デビューも34歳と遅い。その分、研究に研究を重ねた結果ということもあろう。それに、「人類で最高」に歌うためならば、燕尾服でなければならなかった。