西欧の「個」と日本の「ひとり」では
根底にある人間観が異なる

 「個の自立」を重視するのは西欧発の考え方ですが、西欧と日本では、そもそも根本的に人間観が異なることを忘れてはいけません。

ヨーロッパ近代社会を支える人間観の第一の軸は「人間は疑うべき存在だ」という思想です。われわれの社会は、最後はどうしても「弱肉強食」の自由競争になるのを避けられない。そうした競争社会を生き抜いて行くときには、まず相手を疑うところから出発するわけです。イギリスの哲学のベースには、この思想が流れています。哲学といえば、デカルトのいう「われ考える、ゆえに吾あり」ですが、それは詰まるところ「われ疑う、ゆえに吾あり」です。徹底して疑う精神があるからこそ、科学的な発見もそこから生まれたのではないでしょうか。

 しかし、もしも、人間を徹底的に疑わしい存在だとだけ考えていたら、コミュニティーはそもそも存在しません。民族や国家も成立するはずがありません。それを成立させるためには、どうしても2つの条件が必要でした。そのひとつが、「絶対神」を考えだしたことです。個人同士では人間的な信頼関係をつくれないから、絶対神と個人との垂直な関係をそこにつくり出すためです。絶対神のもとにおいては、人間の行動は抑制されますから限界づけられるでしょう。一神教の存在が絶対に必要だったわけです。

 もうひとつは、契約の精神でした。これも旧約聖書から出てきていますが、近代になって神が否定された後、「神と人間」との契約精神を「人間と人間」の関係に置き換えて契約を結ぶという考え方が出てきました。食うか食われるか、という不安定な社会を、契約によって安定させる。また、一神教の伝統が近代になって、神の代わりに理性や公平さ、正義という言葉に置き換えられたのもそのためです。余談ですが、グローバル時代に入って、正義や理性や公平性が持ち出されるときは、実はその背後には一神教の神を持ち出してきているのと同じことなんだ、という自覚を日本のビジネスマンは持たなければいけないと思いますね。

 これに対して、日本の社会は一神教がまったくとは言わないけど、ほとんど育たなかった。それから、契約の精神も育たなかった。中世の北条政権の頃、武士の世界にあった忠誠心は現実的な契約に基づいていたという歴史学者もいますが、根本的に欧米における契約の精神とはレベルが異なります。

 こうして、一神教的観念も、契約の精神もない日本のようなところで、人間同士の根本的な関係をどう考えるか。相手を疑ってばかりいては、そもそも社会が成立しないどころか崩壊してしまう。そこで、人間は信ずべき存在だ、という人間観がどうしても必要になったのだと私は思います。そして、この「人間は信ずべき存在だ」という人間観をなんとか安定させようとして生み出された価値観のひとつが「集団」のあり方を大切にするという考え方でした。

 今風に「コミュニティー」というと何となく新しい観念のように映りますが、つまりそれは、今いった「集団」ということでもあります。個人の利益を無視するのではないけれども、その個人の利益は集団の安定性のなかで始めて意味あるものとなる、という考え方です。

 もちろん、この「集団」の問題を「個人」のあり方から切り離して独走させはじめると、いわゆる悪名高い「集団主義」をつくり出すことになりますが、そのいつか来た道を避けるためにも「個人」の問題をいつも視野に入れておかなければならないでしょう。そして、その場合の「個人」というのは、西欧社会の場合とは異なって、我が国の伝統的な価値観の中心を占めていた「ひとり」の生き方を包み込むものでなければならないだろう、と私は思っているのです。西欧流の「個人」と日本流の「ひとり」をうまく調和させる形で生きるための第3の道をみつけることが、これからのわれわれの課題ではないでしょうか。