大川小卒業生6人が意見表明
「原爆ドームのような存在にしたい」

住民は初めてそれぞれの意見を交わした
Photo by Y.K.

 被災地の中でも、とりわけ被害の大きかった大川地区では、複雑な利害関係が絡み合って、大人でさえ声を上げることや行動することを躊躇し、思いを伝えられずにいる人たちが少なくない。そんな地域の大人たちに向かって、子どもたちが意見を表明することは、外に向かって発表するよりもはるかに勇気のいる行為だったろう。

 それでも、この日は、1年ほど前から定期的に話し合いを続けてきた大川小の卒業生6人が、「違う意見の人たちの話も聞きたい」からと意を決して、マイクを握った。

 その1人、現在高校3年生の佐藤そのみさんは、震災当時小学6年生だった妹のみずほさんを亡くした。彼女は先日、無事大学に合格し、4月から首都圏の大学に通う。

 そのみさんは「大川地区の皆さんの前で直接お話しするのは初めてで、緊張しています」と前置きして、こう口火を切った。

「被災後の置かれた立場はそれぞれ違うのですが、校舎をあのままの形で残してほしいと望む、2つの理由があります。あそこは、私たちの大切な母校であるということです。他の何物にも代えることのできない、すばらしい思い出が詰まっています。子どもたちをいつも見守っていてくれた地域の方も同じだと思います。大川地区のほとんどが被災に遭ってしまったいま、あの校舎を含め、これからの大川地区の復興について考えていくべきだと思います。

 もう1つは、子どもたちの死を無駄にしたくない。子どもたちがあそこで生きた証と、二度とあのような悲劇を繰り返さないために、校舎を通して伝えていくことが大切です。何十年先の未来を考えたときに、あの場所が更地になっていたら、子どもたちや大川地区のことがだんだんと忘れ去られていくような気がしてなりません」

 あの日、学校にいて津波から生還できた児童4人のうちの1人で、当時小学5年生だった只野哲也君は、当時小学3年生だった妹の未捺さんを亡くした。いまは中学3年生になり、先日高校を受験して、合格した。

「震災直後からメディアを通じて校舎を残してほしい思いを伝えてきました。今日は、直接、地域の方々に伝えられると聞き、この会に参加しました。どんな文章や写真や映像よりも、校舎を見ることで、とても強い印象を与えると思います。私も校舎を見ると、たくさんの思い出がよみがえります。どんなときも地域の中心にあった大川小が、いまでは周りに何もありません。校舎がなくなったら、亡くなった多くの地域の方々や子どもたちの生きていたという記憶が薄れていくのではないか。そうなれば、本当の意味で死んでしまうと強く思います。

 いま以上に多くの人々に、校舎を見てほしいと思っています。広島の原爆ドームが原爆や戦争の愚かさを伝えてきたように、あの校舎も地震や津波の恐ろしさや命の大切さを何十年、何百年と後世に伝えることのできるきっかけになればいいと願っています。私は、自分の言葉で伝えていきたい。みんなの生きた証を壊さないでください。またいつの日か、豊かない自然がいっぱいで笑顔の絶えない大川に帰れる日が来るまで、伝え続けます」