人が発する「オーラ」を
アドラー心理学で解説すると

吉田 「オーラ」ですか。きっとその人は、勇気を出して見知らぬ人にあいさつし、タクシー運転手になったことで、大きくオーラが変わったんでしょうね。アドラー心理学的に、オーラを解説することはできるんでしょうか?

岸見 解説できると思いますよ。例えば、家庭の台所で夕食のあとに、うず高く積まれている食器があるとします。誰かが洗わないといけませんが、自分以外の家族は、食事を終えてテレビを見ながらくつろいでいる。そのときに「私だけがなぜ皿を洗わなきゃならないの」と「嫌だ、嫌だ」というオーラを出して皿を洗い始めたら、家族はきっと手伝いたいとは思わないですよね。「私はすごく嫌な行為をしている」ということを、家族に見せつけているわけですから。

吉田 うんうん。

岸見 自分自身が犠牲者意識にとらわれていると、他の人は手伝おうとは思いません。でも本来「食器を洗う」という行動は、他者に貢献する行為です。家族の役に立つことにほかならない。アドラーは「他の人の役に立てた感じるとき、自分に価値があると感じる」と言っています。
 だから皿洗いも「自分に価値があると思えることを、家族のなかで私だけができるんだ」と心から思いながら鼻歌交じりで楽しそうにしていれば、「楽しそうだから手伝いたい」といってもらえるかもしれないし、いってもらえないかもしれない。実際には、手伝ってもらえなくてもいいんです。本人が貢献感を持てるわけですからね。そのときはきっと、「楽しそうなオーラ」が出ているはずです。

吉田 オーラというのはつまり、「人の感情が、他者に伝わるかたちで出ている」ということなんでしょうか?

岸見 その人の「他者や世界への向き合い方」と言ってもいいかもしれません。「他者を遠ざけるバリア」を張っているのか、それとも「他者は仲間である」と認識しているか、それによって人の接し方はまったく違ってくる。

吉田 ちなみに、僕の人生の目的は「いつもご機嫌であること」なんですが、皿を洗いながらも、ご機嫌でいることはできるわけですね。

岸見 ご機嫌でいれば、「深刻さ」を落とせます。「なぜ私だけがこんなことをしなきゃならないんだ」と思っている人って、みんなすごく深刻なのです。アドラーは「周りの人が私の仲間だと思えたときに、深刻な人生への態度が消える」と言っています。

吉田 ところが「深刻さ」って、その本人にとってはすごく大切であることもよくありませんか?

岸見 そうなんです。それは「悩み」と一緒です。じつは深刻であったり、悩むのには理由があるのです。深刻なとき、悩んでいるときって、「人生に対する態度」を決めなくていいのです。

吉田 決めなくていい! ああ! そういうことか。