生と死はエネルギーが大きく変わるとき

 胎内記憶というのを探っていくと、どうも肉体を持つ前の記憶があるんですね。
 お空の上から子どもがお父さん、お母さんを見ていて、どこに行こうかなと思っている。
 そのときの様子を子どもたちは「背中に羽が生えていた」「白い服を着ていた」「天使がいた」「神様がいた」……そんなことを言います。
 その中でも何人かの子は「僕は光だった」という言い方をします。

 そして生まれるところが決まると、
「だんだんとそこに見合う顔立ちになって変わっていって生まれてくる」
そんなことを言います。

 では、死んだときはどうか。
 産科医はあまり死んだときは扱いませんが、お産というのはいろいろな人がいます。

 無事に妊娠して喜んでいたと思ったら、10~15%ぐらいは流産します。
 そうすると生まれてくる赤ちゃんを授かる立場である産科医が見送るということをしなければいけない。
 これはお母さんも辛いし、助産師さんも辛い、でも産科医もけっこう辛かったりします。

 ところが、胎内記憶で赤ちゃんには帰るふるさとがあるんだ、光になって帰っていくんだ、と思うと、決して死もムダではないと思えるんです。

人間は出産のときに透明になる、光になるとすると、なるほど魂という目に見えないものが肉体に宿るときには、すごくエネルギーを放ってこの世に生まれてくるのだと。

 そう考えると、物質を持った人間から目に見えない魂が肉体を離れるとき、旅立つときは大きなエネルギーとなって帰っていくんじゃないかなというふうに思ったんです。

 そうすると、わたしの中では出産、そして死を考えるとき、透明という言葉がキーワードになってくるのです。