日本は80%が「病院死」

 それを端的に示しているのが、死亡場所の数値だ。病院と施設(欧州では実質的にケア付き住宅)、自宅の3ヵ所に分けた比率を見ると、欧州諸国では病院死が50%前後である。最も低いのは30%台のオランダだ。

 病院死が少ないのは、訪問診療や訪問介護が充実していて、入院しなくても自宅や近辺のケア付き住宅で最期まで過ごすことができるからだ。各国の共通施策である「在宅重視」の成果が、病院死比率の多寡で判定できる。

 では、日本はどうか。なんと病院死は80%近い。欧州諸国とこれほどに大差がついた「生活指標」は珍しい。出産と死亡は、あらゆる生物が同様に体験する自然な現象だろう。決して「病」ではない。ライフスタイルの一環でもある。

 パソコンや携帯電話のICTをはじめ、スポーツや音楽、映画、食文化、ファッション、インテリアなど日々の生活を彩り、欠かせない生活諸要素のひとつが、出産であり死亡・看取りであろう。日本人は、パソコンやレストランなど他の要素はほぼ世界レベルの水準を持ち、その便宜性や快適性を共有している。だが、死の文化だけが、日本は他国とまるっきり異なり、それが数字に表れている。

「歴史や文化が地域や国によって異なるのだから、違いがあっても不思議はない」という指摘がよくある。確かに、地域性は欠かせない。生活の潤いには必要である。だが、方言を使う場が時にはあっても、ほとんど標準語で会話が成り立っているのが現実だろう。大きな流れは、一定の方向への収斂だ。快適性や合理性、それに一定の倫理観に基づいて希求すべき方向が地球規模で絞られていく。

 では、死についてはどうか。なぜ、日本だけが病院死比率が高いのか。

医療や病院、医師への
盲目的な受け入れは日本の特徴

 医療提供者だけにその理由を問うのは当たらないだろう。医療だけでなく国民一般の意識が大きな影響を与えている。それを辿ると、日本の今の急激な「豊かさ」をもたらした多くの要素と重なってくる。

 医療や病院、医師への盲目的な受け入れは、「信仰」に近い。欧州諸国には見られない信頼であり、すがりようだ。モノの獲得を通じて豊かな生活を目指してきた発想そのものに通じる。家電製品やマイカー、新幹線など最新技術への礼賛は、病院や医療にも通じる。

 豊かさは、総中流意識を醸成して全国民が加入する皆保険システムも誕生させた。医療が低価格で使える手近な存在になったことも、医療信仰に拍車がかかった。

 心身に少しの支障が生ずると、すぐに診療である。通院から入院への回路は短い。日本人の受診率や入院期間はずば抜けて高く長い。

 受け入れる医療の側では、治療には熱心ではあるが、ほぼ治療を終えたに近い慢性期の高齢者には別の手立ては持ち合わせない。年齢にかかわりなく、受診に来た高齢者には病名を付け、診療報酬を受け取る。

 老衰による細胞劣化が全身で進行していても、高齢者は病名を求め、薬を欲しがる。これまでの医療のメカニズムに、高齢者と医療側がたやすく乗ってしもまう。老衰を「古いもの」「役に立たたないもの」として認めたがらない。新しいモノが「豊かさ」を生み、それを一心に追い求めてきた。老衰を嫌うのはその弊害であるが、自身は気付かない。

 患者の刻印を押されれば、手術や薬で手を打ち、また元の状態に戻ることができると願う。その「錯覚」に手を貸す医療側の責任は当然問われる。
だが、日本の医療教育では、「死」は教科書の対象になっていない。死への自然のプロセスを学ぶことはない。ギリシャのヒポクラテス以来の「医療者にとって死は敗北」という信条に絡め取られたままだ。

 生物は必ず死ぬ。人間も生物に過ぎない――そんな当たり前の事実から目を背けたいのだろうか。