「高度医療の投入は
必ずしも最善ではない」

「死は苦しいもの」という世間の誤解を解くのは医療者の責務でもある。実は、終末期になると脳内麻薬と言われるβエンドルフィンと血中のケトン体が分泌されて、極めて楽な状態で生を閉じることができるのは医療界の常識。

 自然の摂理はうまくできている。枯れるような死である。人工栄養などの延命治療を施すとその放出が止まり、苦しみを味わうことになる。

 栄養補給の胃瘻などの延命治療を「高度な医療技術」としてきた医療者たちではあるが、見直し機運も実は高まりつつある。日本老年医学会が2012年1月に「高度医療の投入は必ずしも最善の選択肢ではない」と、胃瘻の中止を容認したのが好例だ。

 生活の質(QOL)を第一とする考え方を尊重したのである。

 病院死が多い理由の一つに、意思表明を鮮明に打ち出さない日本独特の精神風土と家族主義が影響していることは間違いないだろう。

 最期の段階を迎えた時に、本人は「家族に任せる」と言い淀み、振られた家族は「専門的なことは分からないからお医者さんにお任せします」となる。医師は回復の見込みがなくても、医療を続けることしか教育されていないから、当然、延命措置に走る。

 もし、本人が「十分に生きた。治療を止めてほしい」と事前に周囲に話していても、その時に意思疎通ができなければ、家族が正反対の方向に動くこともある。「親の死を自分が決めたくない」という心情からだ。本人よりも、家族の心が優先されてしまう。

 医療側にも延命治療に向かわざるを得ない理由もある。

 医療保険制度では、長期入院になると診療報酬が下がる。患者に早く退院して介護施設に移ってもらいたいが、施設側からは「嚥下障害のある方の入所は難しい。胃瘻を作ってもらえば、介助が楽になるのでOKです」と言われ、やむなく胃瘻を増設するケースが多い。

 こうした構造を断ち切らないと病院死は減らない。では、欧米ではどうか。

 まず、死生観が違う。食べられなくなるのは、死への一歩を踏み出したことだから、余計な治療をしない。人生は楽しむためにある。楽しみを奪われて生き続けることに価値があるのだろうか。胃瘻は、後で外すことを前提にしか付けない。延命手段とはしていない。

 日本の医師たちが欧米に視察後、「ろくろく治療もしないで患者を見殺しにしている」と語る光景に出くわしたことが一度ならずある。相当のギャップである。

 これからも病院死が多いままなのか。否。必ずや変わっていくことは間違いないだろう。