「月産耳かき1杯」しか
産出できなかったミドリムシ

 なぜ、ミドリムシの培養は難しいのか。それは、ミドリムシの栄養価があらゆる微生物の中でトップレベルにあるからです。「美味しすぎる」がゆえに、培養しているあいだに他の微生物が侵入し、あっという間にミドリムシを食い尽くしてしまうのです。だから培養は極めて難しく、わずかな汚染で全滅してしまいます。当時の技術では研究室内で「月産耳かき1杯」程度、すなわち月にほんの数グラムしか産出できず、産業として成り立つ目処など夢のまた夢、という状況だったのです。

 日本のミドリムシの培養研究には長い歴史があり、その中心となったのが80年代に当時の通産省が中心となって進めた「ニューサンシャイン計画」でした。ミドリムシを大量培養することで、食料自給率の低い日本の緊急時の食料をすべて賄い、温暖化の原因となっている二酸化炭素もミドリムシに吸収させて削減し、さらにはミドリムシから燃料を取り出して、日本の悲願である国産エネルギーを賄う計画でした。

 この壮大な国家プロジェクトはしかし、失敗に終わりました。その後、ミドリムシの研究に従事する若手の学者もほとんどいなくなりました。出雲氏は時計の針を20年前に戻し、ユーグレナ社取締役で研究開発部長を兼務していた鈴木健吾氏とともに、かつて研究者が行った研究を繰り返し、北は北海道大学から南は宮崎大学まで、日本中のミドリムシ研究者たちを訪ねて回りました。もう一人の仲間、福本拓元(たくゆき)取締役と3人で立ち上げたユーグレナは、かくして石垣島に培養実験用のプールを確保し、ミドリムシの事業化に着手したのです。そして05年12月16日、ついにその日がやって来ました。

 夕方の6時頃、六本木ヒルズのライブドアの会議室を借りて、福本たちと今後の会社の運営などについて話し合っていたときに、一本の電話があった。鈴木からだった。

「出雲さん。やりました。プールが、ミドリムシでいっぱいになりました」

「本当か!」

「はい。いまも順調に増え続けています。培養に成功したといって、間違いありません。これからミドリムシを『収穫』します」

 鈴木はこのとき、乾燥した状態で66キログラムのミドリムシを収穫した。2004から2005年までは、1リットルのフラスコから1グラムのミドリムシが取れるレベルだったのが、比較にならないほどの量が取れるようになったのだ。(126~127ページ)

 だれもできなかった大量培養に、いったいどのような方法を用いて成功したのか。勿体を付けるわけではないのですが、詳細は本書を読んでいただきたい。成功のカギは、なんと「蚊取り線香」が握っていたのです。とまれ、これでミドリムシを事業化する道がようやく拓ける――。出雲氏はそう確信しました。

 ところが、です。大量培養成功からちょうど1ヵ月後の06年1月16日。当時、東京・六本木ヒルズに本社があったライブドアのオフィスに、東京地検特捜部による強制捜査が入ったのです。