首にぶらさげていた線量計が
「キュイ、キュイ」と……
広瀬 秋山さんは、フクシマ原発が爆発する前に逃げたから、大丈夫だと思っていましたが、被曝していたのですか?
秋山 僕が脱出したのは、2011年3月12日午後2時半頃です。
1号機で水素爆発が起こったのは、そのちょうど1時間後です。
確かに、避難民としては、早く逃げたほうです。というのは、大地震と津波によって、原発の電源が失われたらしいという情報が入ってきたからです。原子炉を冷やす水が止まれば、爆発します。なによりも、ラジオで伝えられた情報(空中からセシウムが検出されたという情報)が決定的でした。
滝根町の友人からも昼頃、「逃げたほうがいい」とアドバイスされました。
ともかく80キロ圏内から脱出しようと考えました。でも、どこに逃げようかと日本地図を広げて新潟や東北各地の原発所在地を中心に、コンパスで円を描いてみても、日本中に原発があって、安全な場所がない!
まだ、静岡県の浜岡原発だってどうなるかわからなかった時期で、東京方面へ行ってもマズイだろうと思いました。
広瀬 その頃、僕は、何度も秋山さんに電話をしていました。心配で……。
あぶくま農業者大学校で会った農家の人からも電話があったので、「できるだけ遠くへ、すぐ逃げなさい」と言いました。
秋山 逃げるといっても、僕は行くあてがなく、困っていましたが、なんとか磐梯熱海温泉の予約がとれました。
そこへ向かう途中で被曝したのだと思います。
軽トラックの燃料の残量を確認して、身のまわりのものを積んで家を出たのですが、途中のコンビニは商品が売り切れ、ガソリンスタンドも閉鎖中。たとえ開いているところがあっても、ガソリンがない。みんな素早く逃げたんですね。情報のある人は。
首にぶらさげていた線量計が「キュイ、キュイ……」という警告音を発していました。さらに福島で、3号機が大爆発したのが、2日後の3月14日です。ちょうど風が太平洋側から西のほうに吹いていました。
あの日は雪が降っていて、しかも僕は宿から出て散歩中。一応マスクはしていたのですが、外にいたのです。毎日毎日、新しく「浜通り」という福島県の東のほうから逃げてきた人が集まってきていました。
広瀬 そうして群馬から京都へ逃げて、現在は京都の大学で学生に農業を教えるようになったと聞いて、安心したのですが、途中で被曝したわけですね。