「ユダヤ民族の恩人」が日本で受けた仕打ち

 ・ビザを待つ人群に父親の手を握る
  幼な子はいたく顔汚れをり

 千畝は「抗命」してビザを書き続ける。昼食もとらず、睡眠時間も削って、書き続けた。リトアニアを占拠したソ連(現ロシア)からの退去命令も厳しく、本国からも、領事館を閉鎖して直ちにベルリンへ行けという電報が届く中で、千畝はギリギリまでビザを出し続けた。

 それに対して当時は何の咎めもなく、それからチェコの総領事などをやって、戦後、帰国して、千畝は「抗命」の罪を問われる。その間、ソ連軍に捕まり、ラーゲリでの生活も経験した。ロシア語が達者なためにスパイの容疑をかけられ、厳しい取り調べも受けた。

 そんな辛い思いをして帰って来た千畝を待っていたのは、外務省の辞職勧告だった。これからは平和のために仕事ができると、外務省に次官の岡崎勝男を訪ねた千畝は、「杉原君、自分がリトアニアで何をしてきたか、わかっているでしょう。命令が聞けない人に外務省にいてもらっては困ります。やめて下さい」と言われる。千畝は、一瞬、声をのんだ後、「わかりました」と答えるしかなかった。

 リトアニアで「命のビザ」を発給されたユダヤ人は、「どんなに月日が経とうとも、私たちは必ず再びあなたの前に立ちます。そして、ユダヤ民族の碑に、あなたの名前を刻みます」と誓い、日本の外務省が杉原千畝について何も消息を教えなかったのに、あきらめずに探して顕彰した。

 1991年7月7日、日本テレビの「知ってるつもり!?」で杉原千畝のことが取り上げられ、それを見た中学生が、どうして教科書には杉原さんのことが出てこないのか、東郷平八郎のことを教えるより、杉原さんのことを教えたほうがずっといいのではないか、という手紙を幸子のところによこしたとか。

 その6年前にイスラエルの外相シャミルが来日し、歓迎レセプションが開かれた。当時の首相、中曽康弘や外相の安倍晋太郎も出席したが、85歳になっていた千畝もイスラエル大使に招かれて出席した。イスラエル政府は千畝を会場の真ん中に呼び、中曽根と安倍に、「杉原さんはユダヤ民族の恩人です」と紹介した。しかし、この時点で2人とも、千畝について何も知らなかった。

 それから6年後に、外務官僚の反対を押し切って、外務政務次官の鈴木宗男が幸子と弘樹に公式に謝罪し、“和解”を求める。千畝はすでに亡くなっていた。

「正直言って、今さら何をと思いました」と幸子は私に語った。