日本には、コンセンサスを
育てるための言論空間が必要だ

 筆者は日本には、前述したそれぞれの問題について、あらゆる角度から提示・検討されるパブリックなスペースを設ける必要があると考える。もしそのスペースが専門家だけのものであれば、自滅してしまうだろう。利害関係者である市民は、議論や教育過程に参加できないばかりか、疑問を表明することもできず、特定の公共政策に懸念を表明することもできないからだ。

 こうした場は、政治指導者間の公開討論を開始するのにも素晴らしい場所だ。最近の安保法制可決の政治的意味は、公共政策について議論をしないという、優れた反例である。想像してみてほしい。もし、あらゆる場面で、政治指導者が、独立したアナリストや一般市民からの質問に答えることを強制される、アメリカ流の議論に対面するとしたら? もし安保法制の議論で、それぞれの批判に対して直接個別に対応していたらどうだっただろう? 当面は問題について国民の理解を深めながら、より中間的な見地を内包していたかもしれない。

 アベノミクス、難民受け入れ、移民においても、同じ議論が可能だ。市役所、大学、その他の公的な場所で、賛成者・反対者・中間的見地の人々を交えて公開討論を開催することは、市民生活に影響を与える政策について情報を提供し、教育することになる。それはまた、合理性と事実に基づいて、公共政策に関する議論を行う方法でもある。

 前述の諸問題について、右翼にも左翼にも参加してもらうことも重要だ。難民・移民受け入れ反対者は、必ずしも外国人嫌いの国家主義者というわけではない。彼らは難民については安全への合理的な懸念を持っているのかもしれないし、日本人社会と非日本人社会の融合についても、現実的なだけかもしれない。

 同じ文脈において、安保法制の支持者は、右翼の民族主義者ではなく、安全保障の変更が周辺地域における日本の役割を考え直させる正当な理由になると考えた、かなり現実的な政策立案者や市民かもしれない。

 同じことが、最近の安保法制反対者にも言うことができる。平和主義に固執し、日本の将来を違う形にしようとすることは、彼らが左翼であるとか、非合理的であることを意味しない。彼らの見解は日本の戦時中の悲劇のなかに発見され、日本が再び戦争の犠牲にならないようにしたいのだ。

 最後に、公的な場所で公的討論に市民や政策立案者の参加を奨励することは、社会の様々なステークホルダーを代表する良い政策を創造するために、きわめて重要なことだ。多様な視点を持つ代表者間の、より開かれた討論は、市民を教育し、彼らの批判的思考スキルを育てる。さらに重要なことは、政策立案者が、より透明性の高い姿勢を保ち、開かれた議論と説明責任に基づいて、彼らの立場を正当化することができるようになることだ。