多くの人は、プレゼンをビジネス・スキルと認識しています。私自身、ビジネスで必要だったからプレゼン・スキルを磨いてきました。『社内プレゼンの資料作成術』と『社外プレゼンの資料作成術』も、ビジネスパーソンのために書いたものです。しかし、プレゼンはビジネスを超えて、人生を豊かにするツールだと確信しています。それを教えてくれたのは、乳がんを患ったことをきっかけに、私のプレゼン・スクールに通い始めたひとりの女性。彼女のエピソードをご紹介しながら、プレゼンがもつ「本当のパワー」をお伝えしたいと思います。(構成:田中裕子)
乳がん、そして右乳房全摘出
私が、木全裕子(きまたゆうこ)さんと出会ったのは2014年。ソフトバンクを退職して、独立後はじめて開いたプレゼン・スクールに申し込んでくださったのです。彼女は、名古屋に本社を構える鳴海製陶株式会社の営業ウーマン。結婚式の引き出物にもよく使われる洋食器ブランド「NARUMI」の会社だと言えばピンとくる方も多いでしょう。
当初、私は、木全さんもビジネスのためにプレゼンを学びに来たのだと思っていました。しかし、彼女の話を聞いて驚きました。乳がんのサバイバーである彼女は、自ら乳がん体験者の会「PiF(ぴふ)」を立ち上げて、乳がんの宣告を受けて不安と孤独に苦しんでいる女性たちのサポート活動を展開。その活動をひとりでも多くの乳がん患者に知ってもらうために、プレゼン・スキルを磨きたいというのです。
木全さんが乳がんの宣告を受けたのは2009年7月。
この時点で、ステージ1期。右乳房を温存した場合、胸は大きく変形することが避けられず、乳房の全摘出後、落ち着いてから再建することを薦められました。「あなたは、これから何十年も生きていくんです。その未来のことを考えてください」と主治医から伝えられ、「生きられるんだ」と思いましたが、乳房の全摘出と「がん」という病名は大きなショック。頭が真っ白になったそうです。救いとなったのは、仕事だったと言います。
「当時は仕事も忙しく、日付が変わってから帰宅することもありました。仕事に追われて、乳がんという現実としっかり向き合い、考える余裕すらありませんでした。“なぜ、身体のために休まなかったの?”と聞かれます。でも、いま振り返ってみると、実は、その忙しさに助けられていたんです。もし、休んだり、辞めたりして、暇を持て余していたら、必要以上に落ち込んでしまったはずです」
とはいえ、忙しい毎日のなかで、ふと時間が空くと涙がこぼれてくることもあったそうです。
どうして、こんなに欲しい情報がないのか?
そんななか、木全さんが何よりもほしかったのが「情報」でした。
もちろん、主治医は「術後しばらくしたら普通に生活できる。乳房再建をすれば温泉にも気兼ねなくいける」などの情報を与えてくれますが、「実際に温泉に行けるようになるのか?」といった経験者の体験談が聞きたい。下着メーカーのウェブサイトには「乳がん手術後はこの下着がいい」といった情報が掲載されていますが、経験者のおすすめ商品が知りたい。もっと経験者の「温度のある情報」がほしかったのです。
ところが、ネット上で検索しても、匿名で書かれた記事はあるけれど、実名で書かれた体験談はほとんど見つけることができなかったそうです。
「調べれば医学的な知識は得られますが、これからどう生活をしていけばいいのかという、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)に関する情報が著しく不足していると感じました。だから、不安で不安で……。でも、考えてみたら、乳がんは女性の12人にひとりがかかる病気。どうしてこんなに情報がないんだろうと、不思議でなりませんでした」
そんなある日、木全さんにとって運命的な出来事がありました。
仕事の現場でよく一緒になる60代の女性と、たまたまふたりきりになったときのこと。「12人にひとりが罹る病気なら、12人に聞けば情報が集まるかもしれない……」。そう思って、勇気を出して乳がんであることを明かしたうえで、周りに乳がん患者がいないか聞いてみたのです。
すると、その女性は、こう答えました。
「家族にしか言っていないけれど、私、がん患者だよ」
そして、「10年前に手術したけれど、こんなに元気だから安心して」と前置きしたうえで、木全さんが知りたかったことをいろいろ教えてくれました。病気のこと、下着のこと、温泉のこと、スポーツのこと……。木全さんが「先生は大丈夫って言うけれど、心配で心配で……」とこぼすと、彼女は「大丈夫、大丈夫!」と肩を叩いて励ましてくれたそうです。
「彼女に励まされて、どれだけ心が軽くなったことか。乳がんの宣告を受けてから、あのホッとする感覚にたどり着くまでの時間は、ほんとうに長かったです。それだけに、ありがたくてありがたくて……」
それから2ヵ月後。手術は無事成功。順調に回復して仕事にも復帰。2年半後には乳房再建手術も行うことができました。3ヵ月に1回の乳腺外科と形成外科での診察を除けば、以前と変わらない生活。オシャレも楽しめるし、温泉やプールにも行ける。そんな普通の生活がいかにかけがえのないものか、かみしめる日々だったそうです。
ひとりでも多くの乳がん患者・女性に情報を届けたい!
しかし、木全さんは、それだけにとどまりませんでした。
乳がん宣告をされてからの、不安で孤独な毎日。当時の苦しさを思い返すと、同じ境遇にいる女性をサポートしたいという思いがこみ上げてきたそうです。自分を励ましてくれた“あの女性”のように、いま苦しんでいる女性たちを励ましたい……。
そこで木全さんは、まず「乳がん体験者コーディネーター」という資格を取得。そのうえで、同じ経験を持つ仲間とふたりで乳がん体験者の会「PiF」を立ち上げました。情報交換と親睦の場、そして、なにより乳がん患者のクオリティ・オブ・ライフの向上をめざす団体です。
PiFとは「Pay it Forward」の頭文字をとった言葉で、「恩送り」の意味。木全さんが助けられたように、自分も誰かを助けられる人間になりたい。その恩の輪をつないでいきたい――そんな願いが込められているのです。
ただ、せっかくPiFをつくっても、その存在を多くの女性に知ってもらわなければなりません(まだ乳がんに罹っていない女性に知ってもらう必要がある)。ホームページやSNSで情報発信を始めましたが、それだけではなかなか広がらない。そこで、女性が集まる場所に出かけていって、直接伝えていくことを思い立ちました。しかし、もともと人前で話すのが大の苦手。「社交的な性格じゃないし、自分に自信もない。どうしたらいいんだろう?」と悩んだそうです。
ちょうどそのころ、たまたま見かけたのが、私の主催するプレゼン・スクールの告知。「そうだ! プロにプレゼン・スキルを教えてもらえば、私にもできるかもしれない」と考えて、迷わず参加を決めてくださったのです。(続く)