このように、ほかのモノとの交換が問題になると、あるモノとほかのモノとの価値の比較が俎上に上る。

これがマルクスが言うところの交換価値だ。モノが交換の対象にならない限り、その価値はあくまでも主観的なものだ。マルクスはそこで使用価値という概念を持ち出している。

アブをくくりつけたわらしべは、男にとってほとんど何の役にも立たない(使用価値ゼロに等しい)ものだった。しかし、子どもを連れた女との取引においては、わらしべはミカンと同じだけの交換価値を持つことになったわけだ。

世界をお金に換算すると?

ここまでであれば、人々の価値に対する考えが歪むことはない。

物々交換の世界は、あくまでそれぞれが感じる使用価値が尺度だ。ミカンに対する商人の使用価値とは反物に比べ100倍大きい。一方、貧乏な男にしてみれば、ミカンの使用価値より反物の使用価値のほうが100倍大きい。

したがって、この交換によって、どちらも100倍幸せになれたはずだ。

問題は、そう、お金が生まれたことからはじまる。

物々交換の世界というのは何かと不便である。わらしべとミカンのように1対1での交換取引が成立するケースは稀だ。米2キロと雌鶏1羽が交換されている世界では、手元に米が1キロしかないときに、雌鶏1羽を真っ二つに分けないといけない。

そこで登場するのが、価値の尺度としてのお金だ。お金という発明によって、米1キロは1000円、雌鶏1羽は2000円という具合に、価格で表示されるようになる。雌鶏10羽を手に入れたい人は、わざわざ米20キロを市場まで引きずっていく必要はない。ポケットにお金さえあればいいのだ。