「意識的な思考」と「無意識的な思考」はゼロイチの両輪

林要(はやし・かなめ) 1973年愛知県生まれ。東京都立科学技術大学(現・首都大学東京)に進学し、航空部で「ものづくり」と「空を飛ぶこと」に魅せられる。当時、躍進めざましいソフトバンクの採用試験を受けるも不採用。東京都立科学技術大学大学院修士課程修了後トヨタに入社し、同社初のスーパーカー「レクサスLFA」の開発プロジェクトを経て、トヨタF1の開発スタッフに抜擢され渡欧。「ゼロイチ」のアイデアでチームの入賞に貢献する。帰国後、トヨタ本社で量販車開発のマネジメントを担当した際に、社内の多様な部門間の調整をしながら、プロジェクトを前に進めるリーダーシップの重要性を痛感。そのころスタートした孫正義氏の後継者育成機関である「ソフトバンクアカデミア」に参加し、孫氏自身からリーダーシップをたたき込まれる。 その後、孫氏の「人と心を通わせる人型ロボットを普及させる」という強い信念に共感。2012年、人型ロボットの市販化というゼロイチに挑戦すべくソフトバンクに入社、開発リーダーとして活躍。開発したPepperは、2015年6月に一般発売されると毎月1000台が即完売する人気を博し、ロボットブームの発端となった。 同年9月、独立のためにソフトバンクを退社。同年11月にロボット・ベンチャー「GROOVE X」を設立。新世代の家庭向けロボットを実現するため、新たなゼロイチへの挑戦を開始した。著書に『ゼロイチ』(ダイヤモンド社)。

 もちろん、ひらめきがゼロイチを保証してくれるわけではありません。

 むしろ、ひらめきの大半は”ゴミ”のようなもの。モノになるひらめきは、ほとんどないのが現実です。

 今でも、忘れられない思い出があります。僕がまだ子どもだったころのことです。3本のヒモで遊んでいるときに、「あ!こうしたら3本のヒモを永遠に編み続けることができる!」とひらめいたのです。すごい発明をした気がして、興奮して母親のもとに駆け寄ってやってみせました。

 ところが、母親は「あ~、三つ編みができるようになったのね」とあっさりした反応。自分ひとりで三つ編みができるようになったことを褒めてくれましたが、それは僕が興奮したポイントではありません。「すごい発明」ではなかったことがわかり、僕はガッカリと肩を落とした……。そんな他愛もない思い出です。

 しかし、大人になっても、ひらめきとはそんなもの。いわば、思いつきのサイコロを振っているようなものです。サイコロを振ってみたら、「お、いいね」というものだったり、「これはないね」というものだったりする。「お、いいね」と思っても、すでに誰かが考えたアイデアかもしれませんし、実際にやってみると使い物にならないこともあります。ひらめきとは、そんな非常に不確かなものなのです。

 だから、「意識的な思考」も非常に重要です。
 当然のことですが、ゼロイチのプロジェクトに着手するときには、過去の事例研究は不可欠。Pepperのときであれば、過去に一般市販をめざしたロボットはもちろん、これまでに開発された主だったロボットをできる限り調べ上げました。そして、それぞれがどのような特徴をもち、一般市場にどのように受けとめられたかを分析。いわゆる論理的思考によって、過去の事例の情報を整理するわけです。

 このプロセスを経ることによって、「すでにあるモノ」を出発点にして、思考を深めることができますし、「すでにあるモノ」をマッピングして・空白地帯・を明確にすることができれば、それらの情報も制約条件として思考の焦点を絞ることで、「今までになかったモノ」=「ゼロイチ」のアイデアを誘発しやすくなります。

 あるいは、「無意識の思考=ひらめき」によって生まれたアイデアを、「意識的思考=論理的思考」によって検証することで、「このひらめきに賭けるか?」「使い物になるアイデアか?」を判断することもできます。このように、「意識的な思考」と「無意識の思考」は、ゼロイチにおいて車の両輪の関係にあると言えます。

ゼロイチの主戦場は「無意識」である

 それでも、ゼロイチにおいて決定的に重要なのは「無意識の思考」です。「意識的な思考」はひらめきをサポートすることはできますが、そのプロセスから直接的にゼロイチのアイデアが生まれることは稀だからです。

 たとえば、過去の事例調査は重要なプロセスですが、言い方をかえれば、単に、誰かがすでにやったことを「知識」としてインプットしているだけ。その「知識」は、調査しさえすれば誰でも手に入れることができるわけですから、それだけで、誰も思いつかなかったゼロイチのアイデアが生まれるはずがありません。

 また、論理的思考もゼロイチに直結することは稀です。論理とは「思考の形式・法則」(大辞林、三省堂)のこと。つまり、論理的思考とは、「AはBである」「BはCである」「ならば、AはCである」など、正しく考えれば、誰でも「正しい答え」を導き出すことができる「思考の形式」に沿って考えるということです。であれば、その「思考の形式」に沿って考えても、誰でも思いつくものしか生まれないのが当然の帰結。論理的思考からゼロイチのアイデアを生み出すのは不可能とは言いませんが、とても打率が悪いやり方なのです。

 だから、僕はこう考えています。
 ゼロイチの主戦場は「無意識」である、と。
 論理的思考をはじめとする「意識的な思考」を鍛えることは、もちろん重要ですが、ゼロイチの成否を決定づけるのは「無意識の思考力」。つまり、いかに「ひらめく力」を鍛えて、磨くことができるかにかかっていると思うのです。

 このように言うと、必ず、「それは、もって生まれた才能ではないか?」と質問されます。たしかに、ニュートン、エジソン、アインシュタインなど、人類史を揺るがすようなひらめきを得た偉人は天才と言うほかありません。
しかし、ひらめきの能力そのものは、僕たちの脳の「標準機能」です。小さなひらめきも、ひらめきはひらめき。誰だって、「ひらめき力」はもっているのです。だったら、その能力を鍛えればいい。だから、僕は、誰でもゼロイチはできるようになると信じているのです。

 サイコロを振らなければ、絶対に「あたり」はでない
 ただし、そのためには絶対に必要な条件があります。
 その能力を使い続けることです。つまり、ひらめいたことを実行に移して経験を蓄積していくことです。僕の「三つ編み」のひらめきは「すごい発明」ではありませんでしたが、それでへこたれてはいけません。思いつきのサイコロを振って、その目が「はずれ」でも全然かまわない。それよりも大事なのは、思いつきのサイコロを振り続け、可能な限り実行に移して、その結果を確認し続けること。サイコロを振らなければ、絶対に「あたり」は出ないからです。そして、小さな「あたり」を経験することで、少しずつ実用的なひらめきの感覚がわかるようになる。その結果、実用的なひらめきを生む脳の思考回路が強化されていくのです。

 ニュートンやアインシュタインのような天才も、そうだったはずです。・無駄・なサイコロを無数に振り続けてきた結果として、脳が鍛えられたのだと思うのです。IQが非常に高い神童が、必ずしもそのまま偉大な発明家になるわけではないことが、そのことを反証しているのではないかと思います。

 しかも、それは人間の本能的な喜びそのものです。
 ひらめきの瞬間に、脳内にドーパミンが分泌され、「ああ、そうか!」「わかったぞ!」と膝を打つときの「快感」。これは他の快感と異なり、飽きることのない快感です。それを追い求めるのは、人間の喜びそのものだと思うのです。

 結局のところ、僕はこれまで、この「快感」を求めてゼロイチにチャレンジしてきただけなのかもしれません。「三つ編み」をひらめいて、「すごい発明かも!」と興奮して母親に駆け寄ったときのワクワク感と、レクサスLFA、F1、Pepperで感じてきたワクワク感は同質。そして、この間、悪戦苦闘を続けるなかで、凡人である僕なりに、「ひらめき力」を鍛えることができたのだと思うのです。