「回答なしの出題」が
和算家の質を上げるのに貢献
また、「寛永18年版」には、回答を書かない問題が12問掲載されています。
算術書の問題が解けるか解けないかで、和算家の質を問うのがいいと考えたものと思われます。
この「回答なしの出題」が和算家の質を上げるのに貢献したようで、問題を解いた和算書が出版されるようになりました。
『塵劫記』の出題を解いた本が、12年後の1653(承応2)年、榎並和澄が『参両線』として出版されていて、ついでに自分でつくった問題をつけています。
答えのない問題を出すこと(「遺題」といわれている)がさかんになり、すぐれた和算家が出現しました。
京都市の北部の北嵯峨の長尾山に、菖蒲谷墜道があリます。
蒲谷の池から南へ水を運ぶ200mに及ぶトンネルです。
このトンネルと池は吉田光由が『塵劫記』を出す2年前に掘られたもので、今でも使われています。土木工事もできたので、算数が役立っていると思われます。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(東海道の徒歩旅行)1802(享和2)年初版に、『塵劫記』が出てくる話があります。
弥次さん、喜多さんが、かけ算のわからない小僧から菓子を安く買うが、『塵劫記』を見せて餅を高く売りつけている。