「最後にもう1つ」
ヨーダが私を真正面から見つめて言った。「歩行瞑想についても解説しておこう。といっても、これは少々ハードルが高いから、〈モーメント〉のみんなのためというよりも、ナツ、君自身のためじゃ」
そう、ヨーダが伝授する「最高の休息法」を、私自身も実践するというのが、彼との約束だった。
「これも『自動操縦』解除のための典型的なメソッドじゃ。歩いているときに、自分の手や脚の動き、地面と接触する感覚に注意を向けるだけでいい。歩くスピードは自由じゃが、最初はゆっくりにするといいぞ。歩くという一見単純な動きも、脚の筋肉や関節の複雑な連動で起きておる。それら1つずつを細かく意識してみるんじゃ。できれば、ここでもラベリングを組み合わせるといい。『右』『左』とか『上げる』『下げる』というふうに、自分の行動にラベルを貼ってみると、よりいまここに集中できるぞ」
私たちは狭い階段を上って、地下の研究室から外に出た。太陽が沈みかけた夕暮れ時、イェールのキャンパスが最も美しい時間帯である。
私は言われたとおりに歩行瞑想をはじめてみた。やってみるとわかるが、これは感覚的には、瞑想というよりもゲームに近い。非常にシンプルでありながら、自分の身体を操縦している感じがちょっと新鮮だった。
キャンパスをひと巡りしてくると、すぐ横でヨーダが「どうじゃ、楽しいじゃろ?」と言う声が聞こえた。つい歩行瞑想に没頭するあまり、ヨーダがそこにいることを忘れていた。
ヨーダが言うには、自分の身体の動きに注意を向けて、いまここを意識する方法をムーブメント瞑想と呼ぶらしい。歩行瞑想はその典型だ。マインドフルネスを取り入れたグーグルの社員研修プログラムSIY(Search Inside Yourself)でも、これらが実践されているという。
「ムーブメント瞑想は日常のあらゆる動きに応用できる。服を着るとき、歯を磨くとき、車を運転するとき……日常生活の中の『自動操縦』を意識しさえすればいいんじゃ。どの動きを選ぶかは自由じゃが、できれば毎日決まってやることがいい。たとえば『ラベリングをしながら朝の歯磨きをする』というのでもいいじゃろうな。『外出時に玄関を開けるところからスタート』など、きっかけを決めておくと忘れにくいし、習慣づけがしやすいぞ」
「ちなみに、わしのおすすめのムーブメント瞑想はこれじゃな」
ニカッと笑ったヨーダは、手元のタブレットを操作する。デバイス付属のスピーカーからは、懐かしい、あまりに懐かしいピアノの前奏が流れはじめた。
「腕を前から上げて、のびのびと背伸びの運動から〜」
夕暮れのニューヘイブンで「ラジオ体操第1」を聞くことになるとは……よもや思いもしなかった。ヨーダは生真面目な顔で完璧にラジオ体操をやりきっている。さすがは日本フリークだ。周囲の学生たちからの訝しげな視線に気づいた私は、他人のふりをしてそっと彼から離れた。
* * *
週はじまりの日、いつもの食事瞑想の時間が終わると、私は〈モーメント〉のみんなに呼びかけた。
「みなさん、お気づきかもしれませんが、バックヤードの一角に小さなスペースをつくりました。瞑想スペースです。よろしければ、明日から仕事をはじめる前に、一緒に心を整える時間を持ちませんか?瞑想のやり方は私が教えます」
誰も何も言わない。そんな奇妙なものに巻き込まれるのはごめんだと言わんばかりに、みんな私と目を合わせないようにしている。ブラッドに至っては、露骨に馬鹿にした顔でこちらを見ていた。先端脳科学研究室で通用しなかった私が、怪しげな方法論にのめり込んでいるとでも思っているのだろう。
翌日、予想はしていたものの、瞑想スペースに現れたのは私1人だけだった。ポツンと椅子を置いて、ラベリングを組み合わせた呼吸法をはじめる。ひょっとしたら誰かが来てくれるのではないかと気になって、すぐに呼吸から意識がそれてしまう。
結局、誰も参加しないまま3日が経った。朝の出勤時間になると、スタッフたちがバックヤードに入ってくるが、瞑想している私に気づかないふりをしておしゃべりしている。
「(いったいどうすれば……)」
私の心は休まるどころか、悲しみに暮れていた。「いまここにいること」が脳を休める——ヨーダはたしかにそう言った。果たして本当なのだろうか。言いたいことを我慢しながら黙って働いているせいもあって、私の中には確実にストレスが溜まりつつあった。