近刊『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)が発売4日でたちまち重版・4万5000部突破の気鋭の戦史・紛争史研究の山崎雅弘による新連載です。日本の近現代史を世界からの視点を交えつつ「自慢」でも「自虐」でもない歴史として見つめ直します。『5つの戦争から読みとく日本近現代史』からそのエッセンスを紹介しています。第8回は大東亜共栄圏に含まれておらず、その独立を日本が間接的に支えることとなった戦期のインドを解説します。
大東亜会議に参加した
「チャンドラ・ボース」とは何者か
1943年11月の大東亜会議に参加した代表者の中で、自由インド仮政府のチャンドラ・ボースだけは、他の参加者とは違った立場に置かれていました。彼は名目的には「インド独立政府」を名乗っていましたが、この時点でイギリスの植民地だったインド本国には、彼の影響力はほとんど及んでいなかったのです。
ボースはもともと、イギリスと戦争を行っていたドイツに亡命し、ナチスドイツの支援でラジオ放送を行って、母国のインド人に独立闘争への参加を呼びかけていました。しかし、インド本国ではこの頃、敵国であるナチスドイツの助けなど借りない形での独立獲得を目指す民族運動が既に盛り上がっており、ボースの呼びかけに応える人間はほとんどいませんでした。
インド独立運動の中核的組織「国民会議」の指導者の一人、ジャワハルラル・ネルーは、日中戦争の開始から2年後の1939年8月、空路で重慶を訪れて、中国国民党の指導部と面会していました。中国滞在中、日本軍による空襲に五度遭遇したネルーは、ラジオを通じて「インドと中国の連帯」を強調し、中国人の敢闘精神を高く評価する一方、日本軍の中国侵攻を厳しく批判しました。
当時の国民議会は、宗主国イギリスという「共通の敵」が存在するにもかかわらず、日本もドイツも「共闘者として信頼の置ける相手」とは見なしていませんでした。それどころか、太平洋戦争の勃発で日本軍が東南アジアへの全面的な軍事侵攻を開始すると、インドは日本軍がビルマ経由で自国へも襲来するかもしれないと危惧しました。日本軍が、インドの隣国ビルマで占領統治を開始してから1ヵ月後の1942年7月17日、ネルーと並ぶ国民会議のカリスマ的指導者モハンダス・ガンジー(後に「マハトマ(偉大なる魂)」の尊称で国際的な名声を博する人物)は「全ての日本人に」と題した、次のような内容の公開意見書を、インドの新聞『ハリジャン』に寄稿しました。
「私はあなた方(日本人)に対して、全く悪意は抱いていません。けれども、あなた方が中国に対して行った攻撃を嫌悪しています。あなた方は、崇高な場所から、帝国主義的な野心の場所まで降りてしまいました。もしあなた方が、イギリスが撤退した後のインドに入ろうと考え、それを実行するならば、わが国は全力であなた方に対して抵抗するでしょう」
インドの占領を考えていなかった日本政府
実際には日本政府も軍の上層部も、太平洋戦争の全期間を通じて、インドを日本の支配下に置くという計画は立案しておらず、実質的な日本の勢力範囲を示す「大東亜共栄圏」にインドを含めるという考えも抱いてはいませんでした。
しかし、日本軍は英領マラヤでの戦いで大勢のインド兵(イギリス軍の一員として現地部隊に配属されていた)を捕虜にすると、彼らを集めて1941年12月31日に「インド国民軍(INA)」という反イギリスの軍事組織を編成し、ドイツから密かに日本へと渡ったボースを、後にこの部隊の最高司令官に就任させました。
当時の日本政府がボースのインド独立運動を支援した理由は、インド人のためというよりも、交戦相手であるイギリスを弱体化させるためでした。1943年10月21日、昭南島(旧シンガポール)でボースを首班とする「自由インド仮政府」が樹立されると、日本政府は2日後の10月23日に「独立インド政府」として承認しました。翌10月24日、自由インド仮政府は米英両国に宣戦布告を行い、「インド人が日本と共に米英と戦う」という、日本政府が望んだ形式が作られました。大東亜会議2日目の11月6日、東條首相は「目下日本の占領統治下にあるインド洋のアンダマン諸島(日本海軍陸戦隊が1942年3月に占領したインド領)とニコバル諸島(同じく一九四二年六月に占領)を、自由インド仮政府に委譲する」との、大本営政府連絡会議における決定事項を発表しました。
日本政府がボースの仮政府に外交的承認と固有の領土を与えた背景には、インド独立の「既成事実」を補強するという日本側の意図が込められていました。けれども、実際には「委譲」は名目だけで、日本海軍は引き続きこれらの島を前哨基地として使用しました。また、日本の外務省は自由インド仮政府に公使を派遣したものの、正式な外交関係の樹立は認めず、公使には政府の信任状を持たせませんでした。
その後、戦局が日本の敗北へと向かい始めると、ボースのインド仮政府の影響力は縮小し、ボース自身も1945年8月18日に不運な事故でこの世を去ります。しかし、戦後にインドがイギリスからの独立を果たした後、日本の支援で作られた「インド国民軍」の活動が再評価され、現在では「間接的にインド独立に貢献した」と認められています。