先日、マレーシアで開催されるセミナーに出席するため、シンガポールへでかけた。そのとき、飛行機に乗り込んだ私は、機内での食事を終え、目の前にあった機内映画の番組案内の冊子を手に取っていた。ページをめくる私の目に飛び込んで来たのが、「孤高のメス」という堤真一主演の映画タイトルだった。外科医が登場するドラマや映画は好んでよく見ていたが、近頃は“現実はこんなもんじゃない”と思うことも多くあった。ところが、このときばかりは“孤高”という言葉が妙に私の想像をかきたて、ストーリー解説を読んでいるうちに、さらに想像が膨らみ、映画に強い興味を持った。機内食のトレーを客室乗務員が下げてくれた後、私は慌てるようにバタバタとイヤホンのプラグを差し込み、右手に持ったコントローラーで画面を進め、「孤高のメス」のスタートボタンを押した。
映像が始まる。古めかしい病院、医局場面、そして手術場映像が飛び込んでくる。血管が破れ、血液が額へ飛ぶ、吸引管から引かれる大量の血液が吸引瓶にどんどん溜まりだす。怒鳴り合う外科医、黙々とガーゼをカウントする看護師、と展開する。ストーリーが進み、別の手術場面へ。大きな音で流される音楽、淡々と手術を進める主人公。主人公の口から「ピッツバーグ留学」「肝移植」といった言葉が飛びだす。映画を見ている私は、かつての職場の記憶がよみがえり、映像が頭の中で重なり合う。
外来診察を終え、医局に戻った私に「先生、例のピッツバーグ大学での肝移植の留学、教授から返事が帰ってきて、6月から研修に行くことになったよ」と私の上司であるS先生の言葉。「え~。本当ですか。先生何ヶ月行かれるのですか。でもその間、肝外科の手術は……」と戸惑う私に、「先生が来る前は、I部長と二人でやっていたんだから、何とかなるよ、大丈夫」とS先生の言葉でさえぎられてしまった。
その頃の私は肝臓外科を本格的に始めてまだ2年たらずで、これは大変なことになったなと改めて自分の立場を考えた。当時Sセンターは、日本の肝臓外科の黎明期の一翼を担っていた。欧米に比べ日本ではウイルス性肝炎が蔓延し、肝臓ガンが多発していた。当然、肝ガンの治療法は欧米より進んでいたが、一方で、日本では脳死が認められていなかったため肝移植が行えず、その手術手法は海外に大きく後れをとっていた。
当時、日本でも肝移植の技術はこれから必要であるということは、肝臓外科医であれば誰もが気づいていた。肝外科の最先端技術を取得するための留学はS先生の新たな使命であったのだ。一方、私の使命はといえばS先生不在のなか、肝外科の診療や臨床研究を滞りなく行うことであった。
映画は、脳死肝移植へと展開してゆく。記者会見シーン、脳死判定問題。またまた、私の体験と重なる。
日本では脳死判定の法整備が進まないなか、1989年生体肝移植が実施され、脳死肝移植が開始された1999年当時、私が新人研修として勤めた救命救急センターもドナー手術の施設としてテレビ中継された。