香りの強い草を刈れば季節の命の匂いに包まれ、身の丈ほど伸びた草を刈ればチョウがひらひらと飛び立ち、草むらにいたカエルやヘビに気づかず、傷つけてしまうことがあれば罪悪感でいっぱいになる。
シュリシュリシュリシュリシュリと、ちょっとずつ草を刈る作業の大変さは聞きしに勝るものではありましたが、わたしにとっては、漫然と「里山風景」などと眺めているときにはまるで分からなかった草むらの細かい事情を知る、なんとも奥深い作業でありました。
……ふう。かなり刈った。
刈払い機を肩から降ろして、手ぬぐいで汗をぬぐいながら振り返れば、さっきまで針山だった場所もひととおり歩行可能な土地に戻り、マッシブに迫りくる斜面の草も消え、やった分だけ平和な風景に戻っています。何とも言えない充実感。
しかし、これは一瞬の達成感。
「今週はよく刈ったなあ!」と満足して帰ったとしても、翌週来てみると、ぞっとするほど元の木阿弥なのです。
刈っても刈っても刈っても刈ってもぐいぐい生えるのは、5月から10月くらいの半年間。この期間には「こんにちは!」「お元気ですか?」の代わりに「草刈ってますか?」「今年もすごいですね!」があいさつになりそうなほどです。温暖湿潤な房総の草の伸び具合は、特にすごい気がします。
ああ、まわりの農家さんもみんな、こうやって草刈りして、この風景を維持しているんだな。それが分かると必然的に、田園風景を見る目も変わります。手間をかけて美しく刈られた土地を見ればご苦労様と思い、野放しの耕作放棄地を見れば人の手が離れてしまった場所なのだなと心が痛みます。
こうしてわたしが草刈りのことばかり気にかけ、寄ると触ると「草刈らなきゃ」「あそこ刈り残した」「あの人草刈りうまい」などと話し、毎週刈払い機を振りまわす姿は、作業などせず遊んで過ごすこどもたちの心にも強く刻まれたようです。
以前、小学校の授業参観に行ったとき、三年生の教室の廊下にニイニのこんな詩が張り出されていました。
題「くさかり」
作・ニイニ
草、草、草。
毎週くるたび、
草、草、草だ。
これがすべて野菜だったら
どんなに良いことか。
いくら草をかっても
草、草、草だ。
そのうち、家が草で
うめつくされなければいいが。
まるで人と草との
たたかいだ。
……やれやれ、そんな風に見られていたか。
まあでも、ニイニの言うとおりです。
(第18回に続く)