シリアの村人たちから教わった
「働くことの意味」
もう1つ、僕がシリアの村人たちから教えてもらったのは、「働くことの意味」についてだった。
家庭訪問をしている中で、僕は村にいる人たちに「なぜその仕事をしているのか?」という質問を投げかけていた。その答えが、みんなあまりにもカッコいいのだ。
農業をしている村人からは、「この野菜を美味しく作って、村の八百屋で売ってもらって、村のみんなに食べてもらうんだ。そしたら村が豊かになるだろ」という答え。また、大工をしている村人からは、「この家を頑丈に作ったら、隣の××さんが喜ぶからさ。俺が家を作り続けて、村が少しでも豊かなところになればと思っている」という言葉をもらった。誰もが村のことを大好きで、その村がよくなるために働いていると誇らしげに語ってくれた。
中でも、僕の同僚だったアリさん(当時45歳)からは、「働くことの意味」について、とても大切なことを学ばせてもらった。
彼は僕の暮らしていた村の村長の長男で、そのままでいれば村長という村の安定した名誉職に就ける立場にいる人物だった。にもかかわらず、彼は村長になる道を選ばず、僕の所属していたNPOの職員として働く道を選んだ。そして、文字どおり、馬車馬のようにがむしゃらに働いていた。シリアの人は概してそこまで長時間働いたりしないものだが、彼は毎日首都ダマスカスと村とを行き来しながら、本当に一所懸命働いていた。
あるとき、僕はそんな彼に、村長にならなかった理由や、なぜそんなに一所懸命働いているかを問いかけたことがある。そのときに返ってきたのは、こんな言葉だった。
「私ががんばって働けば、その分だけこの村はよくなるんだ。この村が、シリアという国が、少しでもよりよくなっていく姿を、私はどうしても見たいんだ」
このときのアリさんの目を輝かせながら語っている顔は、今も僕の脳裏に焼き付いている。自分が働くことが自分以外の誰かのための役に立っているのだと、こんなにも自信を持って言えること。こんなにカッコよく働く人が世の中にいるということを、僕は知らなかった。
はたして日本でそう胸を張って言える人は、どれだけいるのだろうか。僕は彼のカッコよさにはっとさせられると同時に、自分も彼のように目を輝かせながら働ける人間でありたいと、心に誓ったのだった。
シリアで暮らす人たちの幸せそうな笑顔を見ていると、ここには大切な「何か」があると直感的に思えたのだ。
もちろん、いわゆる先進国のほうが持っているものも多い。安定的な経済や生活の利便性、優れた技術など、挙げたらキリがない。ただ、そうしたことが本当に人々の幸せにつながっているのかというと、あやしいところかもしれない。
いったい、「豊かさ」とは何なのか。
そんな答えのない問いについて、僕は今日に至るまで頭の中でぐるぐると考え続けている。