『岐阜は名古屋の植民地!?』と題する本がかつて、ローカルではあるがベストセラーになったことがある。もちろん、ご当地・岐阜県でのことだ。タイトルだけからすると、岐阜県というのは自立していないのかと思われそうだが、決してそういうわけではない。ただ、今から500年前、戦国時代の岐阜県(当時は美濃=県南部と飛騨=県北部の2ヵ国に分かれていた)の位置づけを思うと、今はあまりに名古屋・愛知県の影響下にあり過ぎるのではないかという思いを、多くの岐阜県人は抱いているようである。

 当時は、「美濃を制する者は天下を制す」といわれるほど枢要な地域であった。京都にはほど近いし、中仙道が走り、東海道も目と鼻の先にある。情報や物資が行き交うなか、岐阜に城を構えた斎藤道三が力を蓄えていったのも決して理由のないことではないのだ。

 当然、人びとは進取の気性に富んでいたはずである。もちろん、全国でも1、2を争うほど肥沃な濃尾平野の一角を成す農耕地帯で生きていたわけだから、保守的な部分も持ち合わせてはいたが、それは豊かさの裏返しでもある。

「海のない県」に共通する柔軟さ

 ただ当時は、押さえておかなければならない「要衝」だったが、その後それ以上の重みを持つに至らなかった。特に、江戸幕府ができ、すべてが東海道中心の体制が確立してからは、もっぱら「裏」に回ることを余儀なくされたのである。それが300年近く続いたことで、いつしか素直でおとなしい気質が培われていった。御三家の1つである尾張(名古屋)徳川家の動向に注意を払うことが習い性のようになっていた影響もあるだろう。

 小京都の1つ・高山市を中心とする旧飛騨国は、同じ岐阜県でもさらに精神的余裕に満ちた人びとが多い。京都とのつながりが深かったぶんプライドが強いし、時には気品すら感じさせる。

 いずれにせよ、海のない県におおむね共通する人あたりのよい柔軟さは魅力で、そうした部分に気づいているといった態度を適度に示すことが、岐阜県人と上手に付き合うコツといえそうである。

 

◆岐阜県データ◆県庁所在地:岐阜市/県知事:古田肇/人口:209万4430人(H21年)/面積:1万621平方キロメートル/農業産出額:1184億円(H19年)/県の木:イチイ/県の花:レンゲソウ/県の鳥:ライチョウ


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