「和解カード」としては不十分
なぜ安倍談話は心に響かなかったか?

「心に響く安倍談話」はどうすれば実現できたか?なぜ安倍談話は心に響かなかったのか、またどうすれば心に響くものになったのか(写真:首相官邸HPより)

 大袈裟な前触れのわりには、心に響いて、胃の腑にストンと落ちるような、新しいキーワードが見当たらない。強いて挙げれば、「深い悔悟の念」であろうか。網羅した4つのキーワードも右顧左眄の賜物で、主語のない間接話法では近隣諸国との「和解カード」としては不十分である。火種を残したまま、打ち止めを求めた心根は傲慢、不遜と受け止められ、逆効果ではなかったか――。

 8月14日に安倍総理が表明した「安倍談話」は、いったい誰に何を訴え、伝えたかったのか。焦点が不鮮明で、失望を禁じ得ない。自らの誠意ある、心からの言葉で語り切れていない、舌足らずの談話は説得力を欠く。それが筆者の率直な印象である。

 なぜ安倍談話は心に響かなかったのか、またどうすれば心に響くものになったのか、筆者なりに考察したい。

 安倍総理は2012年(平成24年)12月に第二次安倍内閣が発足して以来、戦後50年の節目に出された「村山談話」と同60年に出された「小泉談話」は「一面的」と批判しつつ、戦後70年の節年には両談話を上書き、凌駕する「安倍談話」を発表することを公言してきた。

 70年談話の作成のための私的諮問機関「21世紀構想懇談会」を立ち上げるなど、用意周到に事前準備を重ねる一方、村山、小泉の両談話は歴代内閣と同様、「全体として継承する」が、両談話が明言してきた4つのキーワードである「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「心からのお詫び」は踏襲せず、未来指向重視の談話にしたい、との強い意向を早くから示してきた。

 それ故に、否応もなく国内外の注目を集め、多くの反響を呼び、安倍総理も自分自身の主義主張はさておき、国内外の多種多様な世論に耳を傾け、議論百出の世論をどう咀嚼して、「安倍談話」に採り入れていくべきか、悩まされたに違いない。

 とりわけ安倍総理は、これまでの言動から「歴史修正主義者ではないか」との懸念を国内外で広げ、2013年末の靖国参拝が安倍総理に対する右傾化批判に火を付けたことは記憶に新しい。その安倍総理が出す首相談話は、「村山談話」を批判し、否定するのではないかとの危惧も国内外に浸透し、危機感を募らせて、過剰な警戒心を抱かせたことも否定できない。