マザー・マチルドの来日から150年
木下 今年は学園の創始者で、女子修道会「幼きイエス会」のマザー・マチルドをはじめとする5人が、初の来日修道女として横浜に上陸してから150年となります。上陸してすぐ山手の地で貧しい子どもの養育事業(仁慈堂)と外国人女子教育を始めました。
後者が姉妹校のサン・モール・インターナショナル・スクールで、創立から150周年を迎えたアジア初のインターナショナル・スクールです。サン・モール(Saint Maur)とは、「幼きイエス会」の本院があったパリの通り名にちなむものです。
――何か記念の行事はなさったのですか。
木下 この6月28日が来日記念日で、前日には「マチルド・フェスタ」と題し、マチルドや出身国フランスについてのクラス企画を行いました。クイズありゲームあり、中には、お化け屋敷風のマチルド来日航海体験などもありました。本校の生徒はとてもおもてなしの精神があるようで、いかにお客さまを楽しませるか、一生懸命企画していました。そのおもてなしの精神は自慢できるところです。
翌日には、全国の姉妹校にネットで配信しながら、ミサと今回作ったマチルドの短い映画を上映し、58歳での来日後、40年間子どものために尽くし切ったその人生を振り返りました。講堂のロビーでは、学園の歴史とマザー・マチルドに関する展示もしています。こちらは、来校者や保護者の方などにご案内しています。
――私の存じ上げているこちらの卒業生は、ご両親が教育熱心な方でした。
木下 教育を大切に思う気持ちは、創始者の来日以来ずっと受け継がれています。学園の歴史は、見捨てられた子どものお世話から始まっていますが、生活面だけでなく、読み書きを教える学校でもありました。その後、一般の女学校を開校しました。外国人でも日本人でも、親のない家の子どもでも、必要な方に教育を施すことを創始者も大切にしていました。
――中高の設立はいつからですか。
木下 一般の日本人女子向けに、前身となる横浜紅蘭女学校が創設されたのは1900年です。次いで、静岡(1903年)、東京の四谷(1909年)と田園調布(1941年)、福岡(1933年)と、姉妹校がつくられました。
校名の「紅蘭」の元になった紫蘭(シラン)は紫色で可憐、でも強い花です。マザー・マチルドが、生徒にそういう女性になってほしいと校名に付けたそうです。戦後、姉妹校共通の「雙葉」を校名に用いることとなり、現校名になったのは1958年からになります。
――マザー・マチルドはなぜ日本に来たのでしょう。
木下 直接には、一足早く江戸末期に来日していたプティジャン司教からの要請でした。それまで、マレーシアとシンガポールで20年ほど現地の教育に関わっていて、横浜に着いた時には58歳になっていました。
ただ、マチルドが日本行きを選んだのは、実はずっと前でした。フランスのロレーヌ地方生まれのマチルドは、「幼きイエス会」の寄宿学校にいた12歳の時に、日本に関する本を読んで日本に行く夢を抱いたそうです。当時日本はまだ鎖国の時代です。何の本を読んだのかはっきりしませんが、長崎で殉教した二十六聖人の話だったのかもしれません。