
後藤謙次
ロシアによるウクライナ侵攻を巡るニュース一色の中、国内政治では自公連立に国民民主党を加えた「自公国3党連立」構想がジワジワと進行中だ。国民民主の自民への急接近は突如として表面化した。2022年度政府予算案に賛成したからだ。国民民主党代表の玉木雄一郎は2月22日、衆院本会議の賛成討論で理由を語った。

「存在の耐えられない軽さ」というアメリカ映画があった。米ソ冷戦時代のチェコスロバキアで生まれた民主化運動、「プラハの春」をモチーフにした約3時間に及ぶ長編作。美しいプラハの街は突然現れた旧ソ連軍の大型戦車によって押しつぶされる。プラハの街を走行する戦車の姿がモノクロのニュース映像として差し込まれ、ユニークな題名と共に強烈な印象を残す。その「プラハの春」から54年。今度はロシアの戦車がウクライナの首都キエフ近郊に進軍した。映画のプラハとキエフが重なった。

かつて大平正芳内閣で徴税の効率化や脱税の防止のため、「納税者番号制度」に近い「グリーンカード制度」が法制化された。ところが、実施段階になって金融機関などの強い反対に遭って制度そのものがつぶされたことがある。この導入・廃止の両方に関わったのが当時の自民党の実力者、金丸信だ。

「外国企業にとって日本が長期的に信頼できるパートナーかどうかに疑問を生じさせる」。こう語ったのは在日米国商工会議所(ACCJ)特別顧問のクリストファー・ラフルアーだ。韓国の「ハンギョレ新聞」が2月11日、東京発の特派員電で報じた。ラフルアーは元米国の駐マレーシア大使だが、日本では元首相、宮澤喜一の娘婿として知られる。宮澤の親戚でもある首相、岸田文雄も「何度も会ったことがある」と語るほどの旧知の米国人だ。

岸田文雄政権の行方を左右する参院選まで約5カ月。ところが自民党の選挙態勢がいまだに整わない。参院選の前哨戦ともいえる長崎、石川両県知事選では保守分裂のまま投票日に向かう。自民党内からも「本当に参院選までに間に合うのか」(党長老)の声が漏れる。

北朝鮮によるミサイルの発射は年が明けてから7回に及ぶ。性能向上も著しい。とりわけ1月30日朝の発射は中距離弾道ミサイルで日本列島全域が射程に収まるものとみられている。官房長官の松野博一は「烈度の高いミサイル」という広辞苑にも載っていない言葉を使って抗議の意思を表明した。

新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」の感染拡大が止まらない。1月22日には国内の新規感染者が初めて5万人を超え、「まん延防止等重点措置」の適用対象は34都道府県に拡大した。オミクロン株の猛威は永田町にも及んだ。

首相の岸田文雄にとって初めての通常国会が1月17日に召集された。会期は150日間で6月15日まで。閉幕直後には3年に1回の参院選が巡ってくる。投開票日は7月10日になることがほぼ動かない。いわば「参院選直結型国会」だ。参院選は首相の解散権の行使によって実施される衆院選と違って、選挙の期日を決める与党側の裁量権は極めて限定的だ。

新型コロナウイルスの「オミクロン株」による感染拡大が止まらない。あっという間に全国に広がり、歯止めがかからない。想定外だったのは在日米軍基地に由来するとみられる深刻な感染拡大だろう。全国の7割の米軍基地が集中する沖縄県では、1月8日の感染者数は過去最多の1759人に達した。こうした感染拡大は昨年末から続いており、日本政府の対応に不満、批判が広がる。沖縄県知事の玉城デニーは怒りを込めた。

岸田文雄が首相に就任したのが2021年10月4日。それからちょうど3カ月の節目と重なるように22年の新年が明けた。岸田側近が「風格のようなものが出てきた」と語るように岸田政権は安定軌道に入ったかに見える。

2021年12月9日の衆議院本会議場。9月17日に74歳で死去した当時の竹下派会長、竹下亘の追悼演説が行われた。議場2階の傍聴席で息子、実弟ら遺族が演説に聞き入った。追悼演説で竹下を送ったのは、初当選同期の自民党組織運動本部長の小渕優子だった。

2022年の政治は7月に想定されている参院選を軸に展開される。首相の岸田文雄が長期政権を担えるかどうか、全て参院選の結果に懸かっているといっていい。参院選は衆院選のように政権を選択する選挙ではないが、過去の例を見れば分かるように、「政権が倒れるきっかけになる選挙」である。岸田にとっては“中間試験”の意味を持つ。

ここ1カ月で新聞の政治面に「派閥呼称のおことわり」との見出しが付いた小さな記事が3回も掲載された。共同通信はこんな記事を配信した。「自民党細田派が安倍晋三元首相を新会長に決定しましたので、今後の呼称を『安倍派』とします」(11月11日)。「自民党旧竹下派が茂木敏充幹事長を新会長に決定しましたので、今後は呼称を『茂木派』とします」(11月25日)。いずれも新会長就任に伴うものだったが、12月2日の「おことわり記事」は趣を異にした。

「二階派の一人は小林議員でお願いします」。今年10月、首相の岸田文雄は新内閣の組閣に当たって自民党の二階派幹部の林幹雄に、まだ当選3回(その後4回)の小林鷹之の入閣を要請した。いわゆる「一本釣り」だった。しかも小林の担当は岸田内閣で創設された経済安全保障担当相。岸田の思いが小林の人事に凝縮されていた。岸田が小林に白羽の矢を立てたのは、まだ日本では耳慣れなかった経済安全保障分野の政策ではトップグループの一員だったからだ。

東京・永田町にある自民党本部は来年度予算編成の時期が近づき来客が絶えない。例年なら陳情客とおぼしき人たちは党本部4階に向かう。総裁、副総裁、幹事長、幹事長代行、選対委員長の各部屋が集まるからだ。6階には政調会長室と総務会長室が廊下の両端にあり、ここにも陳情客が吸い込まれていく。

11月11日の衆院本会議場でのことだ。自民党の新しい幹事長に就任した茂木敏充が前国対委員長の森山〓(もりやま・ひろし、〓はしめすへんに谷)の席にやって来て、突然話し掛けた。「実は今日いいことがあったんです。平成研(自民党竹下派)の会長に内定しました」。

選挙は言うまでもなく戦である。終われば勝者と敗者が生まれる。自民党は議席を減らしたとはいえ絶対安定多数を確保して、早々に第2次岸田文雄政権が発足した。野党第1党の立憲民主党は敗戦処理に追われる。事前のメディア報道は「立民に勢い」。それだけに公示前の110議席から96議席に後退したショックは大きかった。

「勝てなかったけれど、負けもしなかった」。自民党の選対幹部が自嘲するように、10月31日投開票の衆院選はまさしく「勝ちに不思議な勝ちあり」の結果だった。自民党は公示前の議席から15議席を減らしながらも、国会を円滑に運営できる261議席の「絶対安定多数」を確保した。

あっという間に衆院選の投票日が巡ってきた。与党の自民党を率いる首相、岸田文雄(64)が掲げた勝敗ラインは「与党で過半数の233」。解散前の与党の議席は305(自民276、公明29)。マイナス72議席でも与党勝利という計算になる。いわば「責任回避」の数字と言っていい。しかし、現実的な責任ラインは「自民党の単純過半数233」(自民党幹部)。マイナス40議席が責任論の目安といえる。

衆院解散からわずか5日で衆院選挙は10月19日の公示日を迎えた。異例の短期決戦を決断した首相、岸田文雄の狙いの一つに、新政権が発足すれば内閣支持率が急上昇するという「ご祝儀相場」への思惑があったことは否定できない。確かに菅義偉政権末期は最悪の状況だった。
