
後藤謙次
東京・永田町にある自民党本部は来年度予算編成の時期が近づき来客が絶えない。例年なら陳情客とおぼしき人たちは党本部4階に向かう。総裁、副総裁、幹事長、幹事長代行、選対委員長の各部屋が集まるからだ。6階には政調会長室と総務会長室が廊下の両端にあり、ここにも陳情客が吸い込まれていく。

11月11日の衆院本会議場でのことだ。自民党の新しい幹事長に就任した茂木敏充が前国対委員長の森山〓(もりやま・ひろし、〓はしめすへんに谷)の席にやって来て、突然話し掛けた。「実は今日いいことがあったんです。平成研(自民党竹下派)の会長に内定しました」。

選挙は言うまでもなく戦である。終われば勝者と敗者が生まれる。自民党は議席を減らしたとはいえ絶対安定多数を確保して、早々に第2次岸田文雄政権が発足した。野党第1党の立憲民主党は敗戦処理に追われる。事前のメディア報道は「立民に勢い」。それだけに公示前の110議席から96議席に後退したショックは大きかった。

「勝てなかったけれど、負けもしなかった」。自民党の選対幹部が自嘲するように、10月31日投開票の衆院選はまさしく「勝ちに不思議な勝ちあり」の結果だった。自民党は公示前の議席から15議席を減らしながらも、国会を円滑に運営できる261議席の「絶対安定多数」を確保した。

あっという間に衆院選の投票日が巡ってきた。与党の自民党を率いる首相、岸田文雄(64)が掲げた勝敗ラインは「与党で過半数の233」。解散前の与党の議席は305(自民276、公明29)。マイナス72議席でも与党勝利という計算になる。いわば「責任回避」の数字と言っていい。しかし、現実的な責任ラインは「自民党の単純過半数233」(自民党幹部)。マイナス40議席が責任論の目安といえる。

衆院解散からわずか5日で衆院選挙は10月19日の公示日を迎えた。異例の短期決戦を決断した首相、岸田文雄の狙いの一つに、新政権が発足すれば内閣支持率が急上昇するという「ご祝儀相場」への思惑があったことは否定できない。確かに菅義偉政権末期は最悪の状況だった。

「日本国憲法第7条により、衆議院を解散する」。10月14日午後の衆院本会議。この日を限りに政界を引退した衆院議長の大島理森が解散詔書を読み上げた。大島は憲法順守を強く訴え、衆院議員の任期満了(10月21日)を超える選挙に難色を示してきた。しかし、結果は前首相、菅義偉の退陣を誘発した自民党総裁選の実施で、憲政史上初めて「任期超え総選挙」を余儀なくされた。

100代の首相に就任した岸田文雄は「守りの岸田」から「攻めの岸田」に変身を遂げた。10月4日午後の衆参両院の本会議で正式に首相に選出される直前、永田町に衆院解散のつむじ風が吹き抜けた。岸田が首相就任前に「伝家の宝刀」である解散権を行使したからだ。

日本の新しい顔を決める自民党総裁選は決選投票の末、岸田文雄(64)に決まった。10月4日に召集される臨時国会で、菅義偉(72)に代わり首相に就任する。1885年の初代首相、伊藤博文から数えて100代目という節目の首相になるが、前途洋々というわけではない。

自民党総裁選が告示された9月17日夜、党内第3派閥、竹下派会長の竹下亘が都内の自宅で静かに息を引き取った。74歳だった。

首相の菅義偉の退陣表明を受けた自民党総裁選は、当初想定された“オールスター”ではなく“ジュニアオールスター”の様相だ。ただ、選挙全体の構図は前首相の安倍晋三が9年にわたって構築した「安倍1強体制」の存亡が懸かった大戦になりつつある。派閥総崩れの総裁選は自民党の歴史をさかのぼっても例を見ない。

無派閥議員として頂点を極めた首相の菅義偉(72)は、権力を巡る攻防の果てに突然表舞台から姿を消した。そして菅退陣劇の中で新たに生まれた確執がまた次の権力闘争の舞台の幕を上げた。

政治は一瞬にして大きく流れを変える。8月30日午後3時半、自民党幹事長の二階俊博が側近の幹事長代理、林幹雄を伴って首相官邸に現れた。林は、首相の菅義偉のために二階が用意した地元和歌山県の特産品の梅干しが入った白い紙袋を手にしていた。政治を左右する重要会談にも手土産を忘れない二階独特の気配りは全く変わらなかった。二階を待っていた菅はいきなり切り出した。

横浜市長選の「歴史的な惨敗」(自民党幹部)の責任者といえる首相の菅義偉は、8月24日、自民党本部で開かれた自民党役員会に出席した。出席者によると、菅は一言も発することなく、幹事長の二階俊博の発言を黙って聞いていた。15分ほどで役員会が終了すると、菅は出席者一人一人に頭を下げて回ったという。そこにおわびの意味が込められていたことは言うまでもない。

「今回の宣言が最後となるような覚悟で政府を挙げて全力で対策を講じる」首相の菅義偉が国民に向かってこう約束したのは、東京五輪開催中の7月30日の記者会見だった。この日開かれた政府の感染症対策本部で、すでに緊急事態宣言が発令されていた東京都と沖縄県に加え、神奈川、大阪など4府県が発令対象となった。この会見で五輪の中止の可能性について問われると、菅はこれを即座に否定した上で、「五輪は感染拡大の原因にはなっていない」と言い切った。

首相の菅義偉が政権の命運を懸けた東京五輪が閉幕した。競技を振り返れば、金メダルラッシュで日本人選手の活躍が目立った。五輪を追い風に政権を浮揚させる。これが政権与党が描いた基本戦略だった。元官房長官で五輪招致に尽力した河村建夫が大会中に地元、山口県萩市の会合で思わず本音を吐露した。

賛否両論が渦巻く中で始まった東京五輪は日本人選手のメダルラッシュが続く。ほとんどのメダリストたちがインタビューで異口同音に語るのが、開催実現への感謝の言葉だ。「たくさんの人のおかげで開催までたどり着いた。いろんなことを考えると、今はたくさんの思いが込み上げてきた」(柔道男子66キログラム級金メダリストの阿部一二三)。阿部が口にした「たくさんの人」の中には、首相の菅義偉も含まれていたに違いない。

前首相の安倍晋三が3選を目指して自民党総裁選への立候補を表明したのは2018年8月26日。総裁選の日程が「9月7日告示、同20日投開票」と決まってからだった。視察先の鹿児島県垂水市で記者団に答えている。「あと3年、日本のかじ取りを担う決意だ」

経済再生担当相の西村康稔が発した酒類の提供停止を巡る発言の波紋がなお収まらない。西村発言が菅義偉政権の構造上の問題、ひずみを浮かび上がらせ、東京五輪開催を間近にして政権の土台を揺さぶる。発端は菅が東京都に再び緊急事態宣言を発令することを明らかにした7月8日西村の記者会見だった。

東京都議選の余韻が残る7月5日午後5時すぎ、東京都知事の小池百合子が東京・永田町の自民党本部を訪れた。小池は病み上がりのはずだが、それとは無縁のはつらつとした姿は“凱旋将軍”のようだった。4日投開票の都議選の結果は、「自民復活」の前評判は木っ端みじんに吹き飛ばされて33議席。逆に小池が特別顧問を務める都民ファーストの会は「一桁転落」の予想を覆して自民に迫る31議席。自民党がもくろんだ「自公で過半数(64議席)」に届かなかった。終わってみれば「小池劇場」のシナリオ通りだったのかもしれない。
