後藤謙次
2021年12月9日の衆議院本会議場。9月17日に74歳で死去した当時の竹下派会長、竹下亘の追悼演説が行われた。議場2階の傍聴席で息子、実弟ら遺族が演説に聞き入った。追悼演説で竹下を送ったのは、初当選同期の自民党組織運動本部長の小渕優子だった。

2022年の政治は7月に想定されている参院選を軸に展開される。首相の岸田文雄が長期政権を担えるかどうか、全て参院選の結果に懸かっているといっていい。参院選は衆院選のように政権を選択する選挙ではないが、過去の例を見れば分かるように、「政権が倒れるきっかけになる選挙」である。岸田にとっては“中間試験”の意味を持つ。

ここ1カ月で新聞の政治面に「派閥呼称のおことわり」との見出しが付いた小さな記事が3回も掲載された。共同通信はこんな記事を配信した。「自民党細田派が安倍晋三元首相を新会長に決定しましたので、今後の呼称を『安倍派』とします」(11月11日)。「自民党旧竹下派が茂木敏充幹事長を新会長に決定しましたので、今後は呼称を『茂木派』とします」(11月25日)。いずれも新会長就任に伴うものだったが、12月2日の「おことわり記事」は趣を異にした。

「二階派の一人は小林議員でお願いします」。今年10月、首相の岸田文雄は新内閣の組閣に当たって自民党の二階派幹部の林幹雄に、まだ当選3回(その後4回)の小林鷹之の入閣を要請した。いわゆる「一本釣り」だった。しかも小林の担当は岸田内閣で創設された経済安全保障担当相。岸田の思いが小林の人事に凝縮されていた。岸田が小林に白羽の矢を立てたのは、まだ日本では耳慣れなかった経済安全保障分野の政策ではトップグループの一員だったからだ。

東京・永田町にある自民党本部は来年度予算編成の時期が近づき来客が絶えない。例年なら陳情客とおぼしき人たちは党本部4階に向かう。総裁、副総裁、幹事長、幹事長代行、選対委員長の各部屋が集まるからだ。6階には政調会長室と総務会長室が廊下の両端にあり、ここにも陳情客が吸い込まれていく。

11月11日の衆院本会議場でのことだ。自民党の新しい幹事長に就任した茂木敏充が前国対委員長の森山〓(もりやま・ひろし、〓はしめすへんに谷)の席にやって来て、突然話し掛けた。「実は今日いいことがあったんです。平成研(自民党竹下派)の会長に内定しました」。

選挙は言うまでもなく戦である。終われば勝者と敗者が生まれる。自民党は議席を減らしたとはいえ絶対安定多数を確保して、早々に第2次岸田文雄政権が発足した。野党第1党の立憲民主党は敗戦処理に追われる。事前のメディア報道は「立民に勢い」。それだけに公示前の110議席から96議席に後退したショックは大きかった。

「勝てなかったけれど、負けもしなかった」。自民党の選対幹部が自嘲するように、10月31日投開票の衆院選はまさしく「勝ちに不思議な勝ちあり」の結果だった。自民党は公示前の議席から15議席を減らしながらも、国会を円滑に運営できる261議席の「絶対安定多数」を確保した。

あっという間に衆院選の投票日が巡ってきた。与党の自民党を率いる首相、岸田文雄(64)が掲げた勝敗ラインは「与党で過半数の233」。解散前の与党の議席は305(自民276、公明29)。マイナス72議席でも与党勝利という計算になる。いわば「責任回避」の数字と言っていい。しかし、現実的な責任ラインは「自民党の単純過半数233」(自民党幹部)。マイナス40議席が責任論の目安といえる。

衆院解散からわずか5日で衆院選挙は10月19日の公示日を迎えた。異例の短期決戦を決断した首相、岸田文雄の狙いの一つに、新政権が発足すれば内閣支持率が急上昇するという「ご祝儀相場」への思惑があったことは否定できない。確かに菅義偉政権末期は最悪の状況だった。

「日本国憲法第7条により、衆議院を解散する」。10月14日午後の衆院本会議。この日を限りに政界を引退した衆院議長の大島理森が解散詔書を読み上げた。大島は憲法順守を強く訴え、衆院議員の任期満了(10月21日)を超える選挙に難色を示してきた。しかし、結果は前首相、菅義偉の退陣を誘発した自民党総裁選の実施で、憲政史上初めて「任期超え総選挙」を余儀なくされた。

100代の首相に就任した岸田文雄は「守りの岸田」から「攻めの岸田」に変身を遂げた。10月4日午後の衆参両院の本会議で正式に首相に選出される直前、永田町に衆院解散のつむじ風が吹き抜けた。岸田が首相就任前に「伝家の宝刀」である解散権を行使したからだ。

日本の新しい顔を決める自民党総裁選は決選投票の末、岸田文雄(64)に決まった。10月4日に召集される臨時国会で、菅義偉(72)に代わり首相に就任する。1885年の初代首相、伊藤博文から数えて100代目という節目の首相になるが、前途洋々というわけではない。

自民党総裁選が告示された9月17日夜、党内第3派閥、竹下派会長の竹下亘が都内の自宅で静かに息を引き取った。74歳だった。

首相の菅義偉の退陣表明を受けた自民党総裁選は、当初想定された“オールスター”ではなく“ジュニアオールスター”の様相だ。ただ、選挙全体の構図は前首相の安倍晋三が9年にわたって構築した「安倍1強体制」の存亡が懸かった大戦になりつつある。派閥総崩れの総裁選は自民党の歴史をさかのぼっても例を見ない。

無派閥議員として頂点を極めた首相の菅義偉(72)は、権力を巡る攻防の果てに突然表舞台から姿を消した。そして菅退陣劇の中で新たに生まれた確執がまた次の権力闘争の舞台の幕を上げた。

政治は一瞬にして大きく流れを変える。8月30日午後3時半、自民党幹事長の二階俊博が側近の幹事長代理、林幹雄を伴って首相官邸に現れた。林は、首相の菅義偉のために二階が用意した地元和歌山県の特産品の梅干しが入った白い紙袋を手にしていた。政治を左右する重要会談にも手土産を忘れない二階独特の気配りは全く変わらなかった。二階を待っていた菅はいきなり切り出した。

横浜市長選の「歴史的な惨敗」(自民党幹部)の責任者といえる首相の菅義偉は、8月24日、自民党本部で開かれた自民党役員会に出席した。出席者によると、菅は一言も発することなく、幹事長の二階俊博の発言を黙って聞いていた。15分ほどで役員会が終了すると、菅は出席者一人一人に頭を下げて回ったという。そこにおわびの意味が込められていたことは言うまでもない。

「今回の宣言が最後となるような覚悟で政府を挙げて全力で対策を講じる」首相の菅義偉が国民に向かってこう約束したのは、東京五輪開催中の7月30日の記者会見だった。この日開かれた政府の感染症対策本部で、すでに緊急事態宣言が発令されていた東京都と沖縄県に加え、神奈川、大阪など4府県が発令対象となった。この会見で五輪の中止の可能性について問われると、菅はこれを即座に否定した上で、「五輪は感染拡大の原因にはなっていない」と言い切った。

首相の菅義偉が政権の命運を懸けた東京五輪が閉幕した。競技を振り返れば、金メダルラッシュで日本人選手の活躍が目立った。五輪を追い風に政権を浮揚させる。これが政権与党が描いた基本戦略だった。元官房長官で五輪招致に尽力した河村建夫が大会中に地元、山口県萩市の会合で思わず本音を吐露した。
