何か嫌なことを言ってしまったのだろうか。

「アリサ、ワーグナーとは仲がよかったのだが、いまはもう……」

「ええ、そうなの?それはなんでまた?」

「やつが虚栄心に満ちたやつだと、気づいて耐えられなくなってしまったからだ!」

「虚栄心?」

「ああ。私ははじめ、ワーグナーのことを尊敬していた、年も離れていたし、父親のようにも思っていたのだ。
 しかし……やつの振る舞いを見ているうちに“こいつは芸術家ではなく、俗物だな”と感じてしまったのだ!」

「芸術家ではなく俗物ってどういう意味?」

「そうだな、虚栄に満ちた芸術家ということだ。
 自分を素晴らしい人物であると、他人に見せつけることがワーグナーにとって重要なことであり、芸術はその飾りなのだ。例えばワーグナーは口コミ情報を自作自演したり、金持ちに媚びてばかりで、私は途中で愛想をつかしてしまったのだ」

「えーと、ようするに腹黒いってことかな」

「そうだ、アリサの周りにはそういうやつはいないか?」

「そうだね、うーん病弱っぽいふりをして男子の気を引く女の子みたいな感じかな?
 それとも寄付やボランティアを訴えながら、中抜きするような人……みたいな感じ?」

「まあ、そうだな、ざっくり言うとそんな感じだ。とにかくワーグナーと私は相性がよくない!」

 ニーチェは顔をしかめながら、イライラを落ち着かせるように、お茶を飲み干した。

 私は冷蔵庫にペットボトルを取りに行き、テーブルの上にどんと置いた。

「お茶、飲む?」

「そうだな、ありがとう。けれど各自でいれるとしよう。そんなに気をつかうな」

 そういうとニーチェは2リットルのペットボトルを片手で持ち、手酌しようとしたのだが、その瞬間、バッチャーン!という音と共にテーブルの上に中身がぶちまけられた。お茶がトクトクとテーブルの上にこぼれだす。

「ちょっとニーチェ、何やってるの!」

「すまない、少々気が動転していたようだ」

 ニーチェは、そう言うと、申し訳なさそうにソファの脇に置かれたティッシュ箱からサッサッサッと大量にティッシュを取り出し、床を拭いた。

「ちょっとティッシュもったいないから、これ使って!」

 私はタオルをニーチェに手渡す。

 突然の出来事に驚いたが、お茶をぶちまけるほどのニーチェの気の動揺を見て、ニーチェはワーグナーという人物に対して、そうとう思い入れがあったのだな、と思った。

 そして私は、ワーグナーの話を聞いて、いつの時代でも、人の性格というものはたいして変化がないものなのかな、とも思った。

 時代背景こそ違えども、ニーチェが生きた十九世紀ヨーロッパと現代の日本とでも、同じような性格の人物はいて、似たようなことでみんな悩んでいるのかもしれない。

 政治背景や文化は違えど、人が根本的に追求するものは似ているような気がした。

「なんか、いつの時代でも同じような人はいるものなんだね」

「そうだな、私は究極的には、ワーグナーの考え方や価値観が“悪”だとは思わない。人が何かを“悪”だと思うことは、たいがい妬みや嫉妬からきている。
 妬みや嫉妬の対象になるものが“悪”で、悪の反対側にあるのが自分であると人は考えるものだからな。人間は自分を正当化したがる生き物だ」

「悪の反対側が自分?」

 私はニーチェの言葉に、思わず手を止めた。悪の反対が自分、とはどういうことだろうか。

「羨ましいものや、妬ましいものを“悪”だと思うことで、自分のしていることは正しいんだ、善いことをしているんだ!と自分で自分を納得させるのが人間というものだ。
 例えば“金儲けばっかり考えているやつはだめだ、汚い”と思う人間は、“金儲けばかりを考えていない自分の考えは、人として正しい”という主張の裏返しでもある。
“ガツガツして人に配慮ないやつはクズだ”と思う人間は、“ガツガツせず、人のことも考えられる自分は、人として正しい”という意見を持っているものだ。
 人が何かを悪だと思う時には、悪の反対に、自分を置いている。しかし、その事実にあまり気づいていなかったりする。
 悪を決め付けることで、自分を正当化しているのだ。これは日常的に行われていることだ。
 例えば音楽の趣味もそうだ。
“最近流行っているアーティストってダサいよな”という人は“流行りに流されない自分は利口でまとも”だと考えているだろう。
 何かを否定するということは、否定するものの反対にある“自分”を正しいと主張するひとつの手段でもあるからな。
 何かを否定したり、何かを悪と決めつけることは、自尊心を高める行いでもあるのだ」

 そう言うと、ニーチェは水浸しでべちゃべちゃになったタオルとティッシュをまとめて、ゴミ箱に投げ入れた。

 私はゴミ箱からタオルを取り出し、洗面所の洗濯カゴの中にいれた。

「それはたしかにわかるかも。クラスでもさ、隅っこの席に集まってカードゲームしている子たちは“派手なグループしょうもない”って言っていて、派手なグループの子は逆にオタクっぽい子を“暗いしダサい”って陰で否定し合っているんだけど、“○○ダサい”の反対にあたる、ダサくないものの中に、ちゃっかり自分が入っているってケースだよね」

「これは、ごくごく自然に行われていることなので、あらためて自分自身を振り返ってみると、しょっちゅう言ってしまっている場合が多い。ふぅ、ガス欠だ……」

 ニーチェは急に「ガス欠だ」と言うと、拭いたばかりの床にへたりこみ、黙りこんだ。

「どうしたの?なにガス欠って」

「昨日から何も食べてない……」

「なにそのダイエット中の十代女子特有の台詞……」

(つづく)

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある