シンプルな大原則

 けれども、この本は、シンプルな大原則を教えてくれるのだ。
人は生き残るために働くのだと。まずは、しっかりと食べていくことが重要なのだと。

 そう考えると、本来のアントレプレナーとは、家族や社員がしっかりと生き残り、食べていくために、地平線を広げてくれる人のことなのかもしれない。

 まさに、稲垣篤子氏の目を通して描かれる吉祥寺「小ざさ」の創業者である伊神照男氏の姿からは、それが強烈に感じられるのだ。

 生きていくために夢を思い描き、そうして生きることを高い次元で楽しむことができる存在。
 戦前、銀座の露天商で古本を売り、菓子屋を創業し、そして戦中の満州に渡って土木の仕事を請け負った伊神氏からは、生きるという、強烈な気迫とともに、その背中から湯気が立ち上るように、生きることに挑むことによって生じる楽しさが感じられてならない。

「コーヒースタンドで生き延びろ」

 ようやく「小ざさ」が軌道に乗り始めたときに、大きな百貨店が吉祥寺に出店されるという話を聞く。そのとき、伊神氏は、娘の稲垣氏にこう言ったという。

「もし、お客様が向こうに行ったとしても、コーヒースタンドで生き延びろ」(本書196頁より)

 この強烈な気迫はなんだろうかと思う。
 長年心血を注ぎ、まるで芸術の域にまで高めた究極のコンテンツ「幻の羊羹」を捨てて、コーヒースタンドにしろとは、並大抵の人間が言えることではない。

 やはり、本来的なアントレプレナーである伊神照男氏にとって、ビジネスとは、終局的に生きるためだからだ。だから、そんなことを言えるのだろう。

脱シリコンバレーの起業道

 一方で、起業して儲けて、早い段階で企業を売却してイグジットするという考え方が、世の中にあるという。
 そのシリコンバレー的な考え方に、僕はなじまない。なぜなら、そこにはお金儲けというゲーム的な要素しかないように感じられるからだ。
 金儲けが前提の彼らが、伊神氏流のアントレプレナーシップに勝てるはずがないと僕は思ってしまう。

「なければ頭をつかえばいい」

 この本にあった一節を信じて、僕はお金がまるでないにもかかわらず、2013年9月26日に、東京池袋に15坪の小さな書店「天狼院書店」をオープンさせた。

生きていくために、僕は書店を開いた。

経営の教科書的存在

 それ以来、僕にとってこの『1坪の奇跡』経営の教科書となっている。この本に書いてある、ことごとくを信じた。信じ切って、実践した。

 もちろん、伊神氏はこの本が出版された時点ですでに故人であるので、直接の薫陶を受けたわけではなかったが、読者として、勝手に伊神氏に師事している。
 僕にとっての理想のアントレプレナー像は、スティーブ・ジョブズではなく、伊神照男氏である。
 事あるごとに、この本を開くと、段階によって、違った一文が胸に突き刺さってくる。
 伊神氏は、稲垣篤子氏にこう言ったと言う。

「一家を背負え。背負えば背負うだけ力が出て来るんだから、背負え」(本書147頁より)

 その言葉が今の僕に響くのは、社員を多く抱えるようになったからだろう。
 天狼院書店は、なんとか、3年以上、生きのびた。
 池袋に1店舗目「東京天狼院」をオープンしたのが2013年9月26日のことだったが、その後、2015年9月には、福岡天神に「福岡天狼院」を、そして、2016年12月~2017年4月の5ヵ月間という短期間に、新業態の「スタジオ天狼院」(池袋)、「京都天狼院」(京都)など、4店舗のオープンが予定されている。