安倍首相が「アベノミクスで大事なのは“やってる感”」と語ったとされる。しかし、「やってる感」を醸成するマクロ政策では、日本経済の隘路は解消しない。なにより重要なのは、人口減少・高齢化を迎えた日本の社会経済の中長期的な姿を踏まえて、健全な自然利子率の上げ方について考えることである。具体的にはどのようなことをすればよいのか。クルーグマンの提案を踏まえたうえで、人口ペシミズムを克服する道について検証する。
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この連載の中で、クルーグマンが2015年10月の「日本再考」で、財政の持続性回復こそ日本が直面している中心的な課題だ、と論じていることについて触れた。
では、日本はどうすればよいのか。クルーグマンは、日本が必要とするのは、インフレ率を高めるための拡張的な財政政策と金融政策を組み合わせたきわめてアグレッシブな政策であり、インフレ目標は政策が破綻しないだけ十分な高さでなければならない、とした。それは、重力圏から脱出して、周回軌道に乗るだけのスピードに到達していなければならないのであり、そしてアベノミクスはそこに届くだけアグレッシブではない、というのである。
この日本に対する新たな政策提言について、クルーグマン自身「論理的だが、あまりに直感に反するので、採用される見込みがない」とする。たしかに、“財政再建”という目的を前面に押し出し、そのために、超大型財政を組んできわめて高いインフレを起こせ、というクルーグマンの提案は無理筋にみえる。
しかし、これまでの異次元緩和が、意図せずに実現したことがひとつある。
それは、日銀が大量の長期国債を購入し、長期金利の警報機能を失わせることで財政規律を麻痺させ、財政拡張への抵抗感を弱めたこと、さらには、日銀の損失が前提となる「日銀トレード」で長期国債の利回りを大きくマイナスにしたことで、マイナス金利を財源とする積極財政論を台頭させたことである。こうしたなかで、最近では、FTPLの「管理された無責任」論も台頭している。
旧大蔵省で主税局総務課長を務めた黒田総裁は、財政再建の必要を痛感していたはずである。おそらくは量的・質的金融緩和で早期に2%のインフレ目標が達成されれば、財政再建にも貢献する、と考えていただろう。しかし黒田総裁は、インフレ目標達成は日銀の責任、財政再建は政府の責任、という形式的な議論で押し通し、財政規律への影響を無視して非伝統的金融政策をすすめ、結果的に財政規律を大きく毀損してきた。
クルーグマンがこれに気付けば、欧米で大きな障害になってきた財政規律へのこだわりを巧妙に破壊することに成功したことこそが異次元緩和の最大の成果だ、と高く評価するかもしれない。この道をもう一歩進めば、クルーグマンの「日本再考」で提案された爆発的な財政拡張によるきわめて高いインフレ率の醸成、という道になる。そこでは、きわめて高率のインフレを醸成することが必要だ、とするクルーグマンが、「臆病の罠」とよぶ2%のインフレ目標へのこだわりは破棄されるべきことになる。
アベノミクスは『やってる感』なんだから成功とか不成功とかは関係ない?
しかし、これが本当に日本にとって進むべき道だろうか。
異次元緩和は、進むべき道をミスリードしてきたのではないか。
最近、しばしば目にするようになった警句として「じり貧を避けんとしてドカ貧にならないよう」という言葉がある。米内光政・海軍大臣が、米国の経済封鎖によって、じりじり状況が悪化する苛立ちのなかで、高まる対米開戦論に警鐘を鳴らした発言として知られる。しかし、世論は気短で、理性的に長期的にみて望ましい選択に向かうとは限らない。日銀の異次元緩和だけでなく、2016年に相次いだ英国のEU離脱、トランプ大統領誕生などの出来事は、そうした危惧を強く感じさせる。クルーグマン新提案も大きな「ドカ貧」リスクを伴う。
興味深いことに、安倍総理はインタビューで「アベノミクスは『やってる感』なんだから、成功とか不成功とかは関係ない。やってるってことが大事」と述べた、とされる(※1)。もし政治的にこの路線が成功し「やってる感」で高い支持率を得られているとすれば、これ以上、実験的なマクロ経済政策で一発逆転的な成功を狙うべきではないだろう。
ただ、「やってる感」を醸成するだけのマクロ政策では、日本経済の隘路は解消しない。日本の社会経済を立て直すには、その中長期的な姿を踏まえて、健全な自然利子率の上げ方について考える必要がある。自然利子率が上がらない限り、日本が抱えている根本的な問題は解決しないからだ。
この連載で何度か述べたように、日本の自然利子率低下の背景には、日本の人口減少・高齢化がある。むろん、労働力人口が減少しても、自然利子率や成長率が必然的に低下するわけではない。たとえば、吉川洋氏は、かねて成長率をけん引するのは人口ではなくイノベーションである、と強調している。近著でも、経済成長のカギを握るのはイノベーションであり、日本が世界有数の長寿国であることはチャンスなのだ、と論じている(※2)。
筆者も、日本にとって高齢化には「イノベーションを誘発し成長率を高めるチャンス」という要素がある、と考えてきたから(※3)、そのこと自体には異論がない。しかし、高齢化をチャンスにするためには、公的部門だけでなく民間部門も、この問題と正面から全力で向き合い、人口減少・高齢化から派生する切実なニーズとイノベーションを結びつけていく必要がある。
右肩下がりの自然利子率の大きな背景である高齢化が、大きなビジネスチャンスを伴っているのはなぜか。もう少し、具体的に考えてみよう。
人は高齢化に伴ってクオリティ・オブ・ライフが低下しかねない色々なトラブルを経験する。これ自体は、困ったことだ。しかし、この冷厳な事実は、高齢化に伴ってクオリティ・オブ・ライフを維持するための切実な需要が様々な形で発生する、ということを意味する。
たとえば、認知症の薬であるアリセプトは市場を席巻し、エーザイの中核的な収益源になった。アリセプトは症状の進行を抑制する薬だが、認知症を根治できる薬が開発できれば爆発的に売れるだろう。また、運動器の障害で歩行困難や転倒リスクをもたらし要介護になる可能性を高めるロコモティブ・シンドロームは、変形性関節症と骨粗鬆症に限っても、推計患者数が数年前でも4700万人と膨大である(※4)。その予防や、ロボット等による発症者の介助には、きわめて切実なニーズがある。
また、今後の高齢者の多くは、インターネットを使える。だから、生活用品が宅配されれば、足が弱ってもひとり暮らしを維持できる期間が長くなる。ちなみに、国内の物流「総トン数」は減っているが、宅配「個数」は爆発的に伸びており、今年2017年2月23日には、宅配便最大手のヤマト運輸が、荷受量を抑制する検討に入ったことが報じられた。宅配個数が増える一方、人手不足で長時間労働が慢性化しているため、という。
この間、米国小売り最大手のウォルマートが、2015年10月に米連邦航空局に対し、中国製のドローンを使った屋外での試験飛行許可を申請したと報じられている。実証試験の対象は、店舗から家庭への宅配などである(※5)。人口減少と高齢化の併進は、こうした切実なイノベーションを必要とし、それは生産性を上げる方向に作用する。
高齢化の中で、できること、早急にすべきことは山積している。政府にはそれに向き合う責務があるが、企業にとってみても、それは利益を上げる機会である。日本は高齢化先進国であることに照らせば、国内のニーズに向き合えば、これから伸びていく海外の需要にも向き合える、ともいえる。
現時点で、企業部門に人口ペシミズムが強いのは、人口減少・高齢化を国内の既存需要の減少のみに着目する傾向が強く、前向きなイノベーションの展開の糸口を十分つかめていない、ということだろう。
(※1)芹川洋一・御厨貴『政治が危ない』日本経済新聞出版社、2016年、21ページ
(※2)吉川洋『人口と日本経済』中公新書、2016年
(※3)翁邦雄『経済の大転換と日本銀行』岩波書店、2015年
(※4)日本臨床整形外科学会ホームページ http://www.jcoa.gr.jp/locomo/による
(※5)http://forbesjapan.com/articles/detail/9882 なお、ウォルマートは倉庫内の在庫管理にドローンを活用していることが知られている。