では統制経済的なやり方だとどうなるか。すでに経団連や主要業界団体は、25%節電に向けて嬉々として旗振りを始めているようだ。一部では「民僚」とも揶揄されるこれらの人々が、変に張り切って仕事をすることが、わが国経済の将来にとって本当に望ましい姿なのだろうか。むしろこれは20世紀後半の「1940年体制」の世界への先祖返りではないか。

 このようなやり方は、得てして比例配分するプロラタ方式に陥りやすい。すなわち、業界団体毎に各社一律に25%削減を目指すといった形となって、無意識的にせよ同一化が事実上強制され、節電余地の多寡など各社固有の事情があるにもかかわらず、結果としてそれを守れない会社は非国民的な扱いとなってしまうのである。その結果合成の誤謬が生じやすくなる。

 たとえば在宅勤務である。私は、働き方の多様性の確保という観点から在宅勤務に賛成である。しかし節電という観点から見ればどうなるか。確かにオフィスは節電できる。他方、冷房効率の良くない一般家庭の集積値はむしろオフィスの節電量を上回るのではないか。これでは、わが国が採るべき節電策としては失敗であるという他はない。

価値観の押し付けは、市民社会にとって全く望ましくない

  統制経済的なやり方にはもう1つ大きな問題がある。たとえば、ある有力者が「自動販売機は不要だ」と発言したとする。確かにこれだけコンビニエンスストア等が浸透している首都圏で、自動販売機は一見不要であるように思われる(私自身の感覚としても自動販売機がなくても消費者は誰も困らないと思ってしまう)。しかし、自動販売機を生業にしている人も間違いなく存在するのである。

 有力者の発言は1つの価値観である。その尻馬に乗って唱和することは、特定の価値観の押し付けを市民社会に強制することになってしまいがちである。特に昨今のような「非常時」では不要不急のものは「無駄が多い」というレッテルを貼られやすい。そして一度そういう空気が出来上がってしまうと、不思議なことに誰も反対できなくなってしまう。たかが自動販売機ではないかと言われるかもしれないが、ではネオンサインはどうか、パチンコはどうか、映画館はどうか、といった連鎖が絶対に生じないと誰が言いきれるだろうか。