もう一人の紳士も横から手を差し伸ばした。
「伊藤さん、息子を拾っていただき、ありがとうございます」
幸一の父、山中真治は、会社の仕事にかこつけて中国出張を組み、岩本会長と一緒にこの開業式へ出席するためにやって来た。
「未熟者ですが、何卒よろしくお願いします。親馬鹿と言われるかもしれませんが、私に協力できることがあれば、何でも仰ってください」
若い息子を副総経理(副社長格)として抜擢してくれた隆嗣に謝意を表す。
「本当に親馬鹿ですね」隆嗣は笑いながら応じた。
「幸一君は、もう立派なビジネスマンですよ。だからこそ、私はこの工場を彼に任せることにしたんです。ご心配には及びません、大丈夫です」
隆嗣の言葉に、父親としての安堵を覚えた真治は、再び深く頭を下げた。
隆嗣は筆頭出資者として董事長に就任し、副董事長には李傑に就いてもらうことにした。現地での日本企業叩きを事前に防ぐためだ。通例では、共産党幹部が国営企業以外の公司であるこのような私企業の役職に就くことはないのだが、中央政府の環境政策に沿って設立された政府系合弁公司ということで、周囲を納得させたらしい。
隆嗣は上海がベースだし、李傑も共産党の常務委員として忙しい人間だから、ともに非常勤である。日中間の人事バランスを考えて張忠華を総経理に据えたが、実際の工場運営は幸一が担うことになる。
その他に、隆嗣の依頼を受けて岩本会長が推薦してくれた日本人技術者が、工場長として駐在してくれることになった。
石田亮二は、日本の合板会社の工場長を定年まで勤め上げた実直な人間だ。子供たちも巣立って妻と二人きり余生を静かに暮らそうと考えていたが、その連れ合いを心筋梗塞という一瞬の嵐であっという間に失ってしまい、落魄して寂しく逼塞していた。旧友の意気消沈ぶりを見かねていた岩本会長は、隆嗣の依頼を幸いに、叱咤して新たな挑戦へと誘った。60を過ぎて異国で第二の人生を送ることに躊躇いもあったようだが、独り暮らしで老いを加速させていた父を心配する子供たちの後押しを受けて決断してくれた。
いざ仕事に取り掛かると、石田はサラリーマン時代に培った物作りへの執念と誇りを取り戻し、新たに見出した生き甲斐に邁進した。幸一と工場に泊り込んで、レイアウトから設備の据え付け試運転まで、寝食を忘れるほど油まみれで取り組んでくれた。