「価値観×情報交換」のエリアでは
現実のしがらみから解放された発話が生まれる
つづいて、価値観と情報交換とが重なるエリアではどうでしょうか? そこでは、担保された匿名性によって現実生活のしがらみから解放され、私たちは自由に発話できるようになります。
つい最近まで、情報というのはマスメディアに一極集中しており、マスメディアが放つ情報以外のものが公的なみんなの空間に現れることは難しい状況がありました。しかしインターネットにおいては、集合知がマスメディアを代替します。いままで聴こえなかった小さな声にも気づくようになりました。
インターネットで検索すれば、どんな細かい情報でも瞬時に探すことができます。その情報が10年に1回しか検索されないものだとしても、図書館の棚を必要とするわけでもなければ新聞の枠を必要とするものでもありません。
情報もマッチングが求められる時代になりました。どんなに質が高くても自分と関係が薄いものであれば価値は低い。多少質が劣ったとしてもより自分に合ったものを探したい。これが現代の消費者のニーズとなっていることを知れば、大型液晶モニターで観るハイビジョンの映像とくらべて、画質も音質も悪いYouTubeがなぜ人気があるのかも理解できます。
このエリアのソーシャルメディアは、目的を持って集まる和の重なりをつくります。有用性を求めて拡大する集合知と自由な発話環境とが組み合わさり、それらは一気に加速します。マイノリティに光を当て、多種多様な価値観を内包する公共圏(みんなの空間)を示唆します。
しかし、ここで素朴な疑問が湧いてきます。
声なき声はどうなるのでしょうか? 声を発することができないもの、もしくはその機会に気づいていない声はどうなるのでしょうか? 声がなければ、検索することもできず、そこに関心を寄せることもできません。