マイノリティ以前の孤独

 たとえば、ドメスティックバイオレンスやセクシャルハラスメントなどの問題は、当分の間、個人が私的なものとして耐え忍び、解決すべきことだとされてきました。私的なものとされたテーマについて、私たちは公的なみんなの空間へメッセージを投げることができません。「空気を読め」といわれるかもしれないし、公共の場に私的な話題を出してみんなを不愉快にさせたとして攻撃されるかもしれません。

 そして、私たちの社会には、まだまだ無数に私的なもの、あるいはタブーとされる問題がそれぞれの孤独の裏に隠されています。いうなれば「マイノリティ以前の孤独」です。

 消費における孤独も深刻です。最近、若者を中心に「消費離れ」が騒がれています。私たちは朝起きてから就寝するまでの間に、テレビ、新聞、街頭、電車のつり革、1日に100を超える商品やサービスの広告を見ています。広告のシャワーを浴びながら日々を生きているといっても過言ではありません。

 しかしそれらがほしいと思えない情報ばかりであるとするならば、どのようなことになるでしょうか。社会から受けとる情報のほとんどが自分と無関係であるということは、大げさにいえば、私たちは毎日、自分と社会との関係の希薄さを確認しながら生きていることになります。

 このような情報環境のなかでは「社会が遠くに感じる」といった疎外感を持つこと自体、自然な反応のようにも思えてきます。もし社会が自分と無関係なものであるならば、そもそも自分の欲することを伝えてみようとする発想すら失ってしまうかもしれません。