1945年4月、米軍の攻撃を受けて鹿児島県沖で沈没し、今も海底に眠る戦艦大和。
当時、極秘裏に建造されていたため、その全容にはいまだ未解明の部分が多い。
その一端は現在、『戦艦大和 設計と建造 増補決定版』に収録された設計図などの一次資料に垣間見ることができるが、何よりも海底の大和の調査によって解明される部分が大きいのはもちろんのことである。
昨年2016年5月、呉市が実施した海底の大和の現状調査は、50時間のハイビジョン映像と7000枚の静止画像を撮影した。この膨大な記録は、約1年の調査を経て、今年4月26日から11月27日にわたって、大和ミュージアムの企画展「海底の戦艦大和―呉市潜水調査の成果―」として開催中である。
今回、企画展において紹介されている海底での大和の写真について、簡単な紹介をすることとしたが、できれば企画展でさらに多くの展示資料に接していただきたいと思っている。
そして、海底の戦艦大和の姿から、多くの若者の命を奪った戦争の悲惨さに思いを致し、平和の大切さを感じていただきたい。
今回の調査の特色は、ハイビジョン撮影を実施したと同時に、GPSと連動して、カメラの位置、方位、海面からの深度、海底からの高さ、などがすべて記録されたことにある。
これにより初めて、海底の戦艦大和のそれぞれの部分の正確な位置が把握され、詳細な地図を作成することができた。言わば、これらの作業は、今後の更なる調査のための基礎を確定したと言えるのである。
レーダーの重要性に気づかず、
遅れを取った日本海軍
日本海軍は、当初電波探信儀(レーダー)の開発に関心が薄く、アメリカに大きく遅れをとったのが実情であった。
昭和10年頃にアメリカから、電波で距離測定ができる機械の売り込みがあったということであるが、海軍としてはその重要性に気がつかず、夜戦を身上としている日本海軍が、自分から電波を出して敵までの距離を測るなど、わざわざ自分の居場所を敵に教えるようなものではないかと言ってこの売り込みを無視したのである。
しかし、その後英国などで電波によるドイツ機の警戒装置が実用化しているというような情報があり、関係者の努力で、昭和17年には試作機で実用実験が行われ、昭和18年には実用化された。
写真の21号レーダーは、艦船搭載用の対空見張りレーダーで、多くの艦船に装備された。
写真では、本来華奢な構造であるレーダーが、比較的良い状態で残されていることが見られる。21号レーダーは、現存するものがないので、これは貴重な記録写真と言える。
21号レーダーは、戦時中の写真は残されているが、モノクロ写真であるために色彩に関しては不明であった。しかし、今回カラー撮影されたために、碍子(がいし)が茶色であることが確認されたことは大きな収穫であった。今までの調査の折に引き上げられた戦艦大和の絶縁碍子も同じ色彩であることを考えると、遠方からの視認を妨げることを考慮したものではないかとも思われる。
日本海軍はこの後、艦載用の対水上見張りレーダーとして、13号を昭和18年に実用化、次いで22号レーダーを開発し、昭和19年から実用化した。
この13号、22号も戦艦大和には装備されたが、装備箇所が艦橋両サイド、及びマストの中段であり、両方とも転覆した船体の下になっているために発見できなかった。
アメリカ海軍では、早くからレーダーを射撃に使うことを始めていた。日本の海軍もレーダーで測距することを研究したが、戦時中実用化には至らなかった。だが、射撃レーダーの実験では、2万メートルで誤差100メートル、左右誤差1度程度であり、戦訓などから、アメリカ海軍の射撃用レーダーも同じ程度の性能と判断していた。
改めて海底に眠る日本海軍のレーダーを見るとき、戦後日本の発展のシンボルでもあったエレクトロニクス機器の歴史を、海底から今に伝えているように見える。