面接に行った柏「竹やぶ」で食べた
せいろそばの美味さと値段に驚く

 高橋さんの通う学校へ講師として来たこともあり、「竹やぶ」の店主の顔は見知っていた。しかし、面接に行くと、ちょうど採用者が決まったところだと断られてしまう。

 落胆する高橋さんに、せっかくだからと店主は蕎麦をご馳走してくれた。生まれて初めての美味さにびっくりしたが、値段を見て二度びっくりした。せいろそば1枚が1000円――、父親の店の倍はする。これは「手打ち」の価値なのか、「竹やぶ」の価値なのか、それを知りたいと思った。

 まだ開店前の時間、職人たちは厨房での仕込み作業、店内外の掃除の真っ最中だった。「竹やぶ」には、店主が何年もかけて自らの手で造作した庭、玄関口、石の階段、渡り、遊歩道がある。見習いは朝からたっぷり半日ほどかけて掃除をする。掃除がひとつの精神修業なのだ。

 それを見た高橋さんは、何も言わず掃除を手伝った。家の手伝いをしてきた習慣が何のためらいも無く、すっと行動に出たのだ。高橋さんの蕎麦屋人生の方向が決まった瞬間だった。彼が掃除をする姿を見た店主が、どういうわけか採用を決めてくれたのだ。

新江古田「じゅうさん」――名店の呪縛から解かれた男が生み出す、器の中のエンターテインメントことこと煮含めた鰊としいたけ。甘み辛味が程よくて日本酒が欲しくなる。蕎麦屋酒の醍醐味を味わえる肴がファンを増やしている。

 入店当時、職人は10名ほどおり、活気があった。高橋さんの後に入った見習いには、元F1レーサーという異色の肩書きで、店までバイクで通った者もいた。

 まさに手打ち蕎麦屋は黎明期で、「竹やぶ」のような名店には志願者がどっと押し寄せてきていたのだ。

 資質のある職人たちに囲まれて5年の修業を終えた高橋さんは、26歳で父親が守ってきた「長寿庵」の看板を「じゅうさん」に変えた。