遊び人の父親に連れられて、小学生の頃から寿司屋のカウンターで握りをつまんでいた。そんな亭主が、「安曇野・翁」の二八蕎麦に心を奪われ、修行の道に入る。蕎麦修行の後、4年半の料理修行を経て開いた店は、蕎麦好きだけでなく、イタリアンやフレンチ好きの客をも虜にする。連載4回目は、蕎麦好きでなくとも惹きつけられてしまう、芝「案山子」を紹介する。

江戸の昔に由来があると言われる“二八蕎麦”
それを技術、品質ともに最高レベルに高めた職人がいる

“蕎麦は二八”と言われた時代があった。この“二八”は江戸の昔に由来があるのだが、やかましいくらいの諸説があり、薀蓄好きの蕎麦マニアには蕎麦屋酒での格好の肴になっている。

蕎麦は手繰るといい、江戸っ子の気の短さを象徴する言い回しだ。小腹が空いたときに徳利1本と二八を手繰るのが職人の粋だった。

 代表的なものは蕎麦粉8割、小麦つなぎ2割の二八説。ならば八二蕎麦が本当だろうから、どうなんだとなる。

 もうひとつは価格説。これは江戸中期から蕎麦は16文の時代が長く、江戸っ子が九九で洒落て二八にした。これには江戸後期24文に値上がりしたから無理筋だろう、といった具合だ。

 現代にその二八蕎麦を技術的にも品質的にも最高レベルに高めた職人がいる。一茶庵創始者の蕎麦聖といわれた片倉氏の直弟子、「翁達磨」を興した高橋邦弘氏である。

 何人もの職人たちが、“二八の美学”と言われる高橋氏の完成された蕎麦打ちを早朝に見学に行ったという。

カフェバーのような外観、敷居が高く見えるが、初めての客も和やかに迎える。1年余りをかけて見つけた店舗だけに愛着がひとしおだという。

 あの池波正太郎が通ったという神保町「松翁」の亭主も彼の朝の蕎麦打ちに通ったという。

 日本で初めて蕎麦の色彩選別機を考案した茨城「月待ちの滝・もみじ苑」の亭主の場合は並ではなかった。

 10年にも及ぶ間、自分の店の定休日前日に、茨城から山梨まで徹夜で7時間も車を飛ばして通ったそうだ。