ブラック−ショールズ方程式と、ノーベル賞経済学者の誤算
1973年、フィッシャー・ブラック、マイロン・ショールズ、そしてロバート・マートンという3人の経済学者が、オプション価格設定に関する理論を発展させる2本の学術論文を世に出した。当時はほとんど取引されていなかった複雑な金融契約を説明したものだったが、この論文で金融の世界は変容し、1997年にはショールズとマートンがノーベル経済学賞を受賞するに至る。
彼らの研究の真骨頂として生まれたのが、ブラックーショールズ方程式だ。同方程式に沿って計算すれば、オプション価格が適正値から乖離するときを発見できる。ここから「リスク裁定」を行う新たな一派が誕生。彼らはそろってブラックーショールズ方程式をベースにオプション取引を行って稼いでいた。少なくとも一時期は、これでぼろ儲けが可能だった。
だがその後、1998年にすべてが崩壊する。ヘッジファンド「ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)」が破綻し、金融市場が危機的状況に陥ったのだ。もちろんおわかりのとおり、この市場にはちょっとした問題があった。高度な知識を備え、資金も充分に潤った投資家の全員が全員、ブラックーショールズ方程式を根拠に大穴を狙っていたのだ。しかも大半の投資家が、市場を動かせるほどの極端なレバレッジをかけた。1998年中盤に、そうした賭けの1つが失敗したとたん、全員が債権者への返済のため売りに出ざるを得なくなり、市場から買い手が消えた。これがいわゆる「流動性危機」を生み出し、LTCMを壊滅に追いやったばかりか、市場全体が崩壊寸前となったのである。
皮肉なことにブラックーショールズ方程式は、有名になって広く採用されたからこそ正確さと妥当性を失い、それゆえに危険な知識となり果てたのである。ノーベル経済学賞を受賞したマートン・ミラーが、こう疑問を呈している。
「問題は(……)LTCMの悲劇がこれ特有の、他とは切り離された事象であり、人知のおよばぬ壺から引いてしまったハズレくじだったのか[つまりは不運であったのか]、それとも、この惨状はブラック−ショールズ方程式そのものと、それが与えた『市場参加者の全員が同時にすべてのリスクをヘッジできる』という幻想がもたらした避けがたき結果だったのか、という点だ」
投資家たちにゲーム認識力があれば、この結果は違ったはずではないか。彼らの投資判断が引き起こす戦略的連鎖関係を理解していれば、危機を避けられたのではないだろうか。