簡単なようで難しい「蕎麦の刺身」は仕事師の業が光る
紫蘇と蕎麦布で巻いた「蕎麦味噌の春巻き」も味がある
山梨さんの父親は下町で機械打ちの町蕎麦屋を開業していた。自身も店を女将共々8年手伝った。手打ち蕎麦屋の敷居の高さを感じさせない女将の対応の評判のよさもそんな下地があるのだろう。
「一見の客たちも安心して入れる」「お客さんを連れての会食に丁寧な対応をしてくれる」。そんな声を蕎麦仲間からよく聞く。およそ手打ち蕎麦屋の客ほど女将や花番の目配りを気にする人たちはいないのだ。
「客を大事にする。丁寧な仕事をする。父親から蕎麦屋としての基本を学びました」(山梨さん)。
父親から学んだ仕事が酒の肴にあらわれている。そのひとつが「蕎麦の刺身」、古い仕事だがこれがすこぶる評判なのだ。信州の蕎麦屋や東京の老舗でも時々見かけるものだが、これが簡単なようで難しい。
蕎麦の刺身は口当たりよく仕上げるために、蕎麦を薄く、薄布のように延ばし、注文があったときに釜で茹であげ、冷水に取る。それを客の処にさっと届けて山葵で食してもらう。
単純なものだけに、粉の力に左右される。山梨さんは殻ごと挽いた田舎そばの粉を使う。口に含んだときに、粉の甘みや田舎独特の後口のよさが残る。
この薄く延ばした蕎麦布を使って作るもう一品、「蕎麦味噌の春巻き」も実に味わいがあって楽しい。蕎麦味噌といえば蕎麦屋の定番のひとつ。自家製の蕎麦味噌をさらに味付けして紫蘇と蕎麦布で巻いて油で揚げる。
蕎麦の刺身と蕎麦味噌の春巻き、この二つでまったり酒を味わえば、根津の宵の口そのものとなる。仕事師は古い仕事を新しい趣向に造り変えた。