復元されていく顔と、決意の時

 退院したとはいっても、僕は23ヵ月に一度、飛行機で病院へ通うこととなりました。顔や頭や手など、あらゆる部分の形成手術を行うためです。

 結局、子ども時代の大半をその病院で過ごすことになったのです。

 僕は、何度にもわたるつらい形成手術と闘わなければなりませんでした。

 僕にとって季節の変化とは、体の一部を復元するために2000キロの旅に出かけることを意味していました。

 それほど多くの手術が必要だったのは、状態がひどかったからなのと、まだ幼い僕は日々成長していたので、骨の成長に合わせて手術しなくてはならなかったからです。

 最初に、僕の肋骨の一部で鼻を復元し、化学合成物質で頰を作り、後頭部の皮膚を使って新しいまぶたが作られました。

 左足の腱の手術を受けたあとには、23日もしないうちに僕は走りまわっていました。

 片方の脚にギプスのようなものをつけ、そのギプスのブーツの勢いを借りて自分の体を前進させながら、まるで両足に翼がついているように走りました。

 そのブーツがはずされると、僕はもっと速く走れるようになりました。

 そんな状態だったので、狭い熱傷病棟に閉じこもっていることがだんだん窮屈に感じられてきたのです。

 成長してたくましくなるにつれて、僕は病院の中を探求し始めました。

 ストレッチャーが置いてある場所を見つけると、火傷を負った他の子たちとレースを計画したのです。

 ある時は、ストレッチャーだけを押しながら競争し、またある時は、一人の子が押して、もう一人がストレッチャーのマットレスの上に乗り、馬車レースのようなことをしました。

 また、熱傷病棟を週に2回、訪問していたボランティアのボブと一緒に、病院内の探検をすることもありました。

 ボブがやってきて、「探検に出発しよう」と言うと、いつも素晴らしい冒険が待っていたのです。

 ボブは、どんな患者にもすごく親切でした。

 僕はボブから、人のために何かをする大切さと、退院したら素晴らしい未知の世界が待っていることを教えてもらいました。

 ときどき僕は、病院のさまざまな病棟を歩きながら、毛布に頭を突っ込んでベッドで丸くなっている子をよく目にしていました。

 彼らは何週間もそこに横たわったままで、ベッドの向こうを見ようともせず、両隣に自分と同じ境遇の子がいることにさえ気づいていないようでした。確かに、ある程度の痛みはあったのでしょうが、それはほとんど取り除かれていたはずです。

 彼らをベッドに縛りつけているのは、肉体的な痛みではなく恐怖心だと、僕にはわかりました。それがどんな怪我であろうと、彼らは自分に起こったことが受け入れられずにいたのでしょう。

 でも、成長するにつれて、病院だけでなく、世の中のあらゆる場所で同じような人を目にしたのです。

 4歳だろうが44歳だろうが、僕たちはみんな、困難にどう対処するかを選ばなくてはなりません。それに真っ向から立ち向かうこともできれば、隠れることもできるのです。

 僕はごく幼い時に、世の中に立ち向かう選択をし、それが怖いからという理由で隠れるようなことは絶対にすまい、と決心しました。

 だって、僕を見てください!

 自分に起きたことを隠すことも、自分の外見を秘密にすることもできないとわかっていましたから。

 それは、僕ほどひどくない患者の両親が、僕を見る時の様子に気づいた時のことでした。