その後も、井狩議員は「(新市庁舎建設に対する民意は)1回の選挙でははっきりしないのではないか。住民投票をしない限りは確定しないのでは」など、市長に8回の質問をぶつけた。

 さらに続けて、池上知世議員(公明党)が質問の2番手となり、最後に井上佐由利議員(共産党)が演壇に向かった。井上議員は議会が今年1月に工事契約を議決したことを取り上げ、「庁舎問題が市長選の争点になることを議員は皆、分かっていた。4月の市長選まで契約議決せずに(結果を)待っていたら、違約金は発生しなかった。議会が市民軽視だったのではないか」と、指摘した。

 緊急質問は午後1時半すぎに終了し、昼食タイムに入った。

公共事業中止の前例を持つ街

 琵琶湖の東南部に位置する近江八幡市は、水郷と近江商人発祥の地で知られる。10年に隣接する安土町と対等合併し、人口は8万2116人(18年4月1日時点)。豊臣秀次が城下町として開いた近江八幡は、風光明媚な自然景観と古い町並みを持つ。

 中でも八幡堀の存在が大きい。時代劇のロケ地として全国的に知られ、国の重要文化的景観の第1号にもなっている。

公共事業の見直しで再生された八幡堀 Photo by Toshihide Aikawa

 こうした歴史と文化を誇る近江八幡市は、住民主体の先進的な街づくりでも内外から高い評価を得ている。その代表的事例が、八幡堀の復元運動である。

 高度経済成長期、ヘドロやごみで埋まった八幡堀は地域住民にとって“厄介者”となっていた。悪臭とともにハエや蚊が飛び交い、不法投棄も絶えず、公害の発生源でしかなかった。地元自治会は行政に対し、堀を埋め立てて駐車場や公園に改修してほしいと陳情を繰り返した。

 そうした声を受け、滋賀県が八幡堀を埋め立てる公共事業に着手することになった。ところが、これに近江八幡青年会議所のメンバーらが待ったをかけた。彼らは「堀を埋めた瞬間から後悔が始まる」を合言葉に、八幡堀の浚渫(しゅんせつ)と復元を市民に呼び掛けた。そして、埋め立て工事が進む中で、八幡堀の清掃活動を開始し、県との協議に臨んだ。

 彼らの活動への共感が地域内に広がり、県は進めていた埋め立て工事を中止し、国に補助金を返上することを英断した。75年9月のことだ。翌年3月から当初の事業とは正反対の浚渫と復元の公共工事が開始され、現在の八幡堀へとつながった。

 日本の公共事業はいったん動きだしたら誰にも止められないということが、半ば常識のように語られるが、決してそうではないという前例を、近江八幡市はまさに自ら受け継いできたのだ。

 八幡堀の復元・保存活動を担った川端五兵衛氏は98年に近江八幡市市長となり、先進的な街づくりをさらに進めた。そして、2期8年務めて06年に市長を退任した。

 その後に市長に選出されたのが、4月の市長選で大敗(2万1047票対1万1647票)した前職の冨士谷英正氏だ。臨時会の翌日(5月18日)に市役所近くの事務所で本人を取材した。

「(市長選の)結果は異常だ。今回、初めて自民・公明・維新の推薦を受けたが、もりかけ(森友・加計学園問題)の向かい風を受けてしまった。私はどうでもいいものを建てようとしてきたわけではない。市民報告会や市民アンケート、シンポジウム、パブリックコメントなどを重ねてできたのが、今回の新市庁舎の設計だ。失政は何一つなく、何ら瑕疵はない」

 冨士谷前市長は、臨時会での井狩議員と同様の持論を展開。また「市長選の公約はたくさんあり、選挙結果だけで庁舎問題への民意は分からない。民意を知るには住民投票だが、市議会が否決した。自分も庁舎問題で住民投票をする必要はないと思った」とも語った。

 実は、新市庁舎の是非を問う住民投票については、その実施を求める住民グループが昨年、署名運動を展開した。8118人分(有権者の約12%)もの署名が寄せられ、直接請求となったが、議会は賛成少数(6人)であっさり否決してしまった。この住民グループの代表の一人が、小西市長だった。

 小西市長は市長室で穏やかな口調でこう語った。

「市の職員は優秀だが、職務に忠実なあまり事を急ぎ、住民とのコミュニケーションやコンセンサスがうまく取れていなかったと思う。住民がなおざりにされ、住民の思いと(行政運営とに)ズレや乖離が広がっていた。住民は(新市庁舎建設計画に)納得しておらず、議会も首長の暴走を止めなかった」

 6月8日に臨時会が開かれ、市長から第三者委員会設置の条例案が出される。奥村組から示される損害賠償額を検討し、さらに、白紙に戻した新市庁舎の設計や入札、契約などを検証する委員会だ。メンバーは4人とされ、水面下で人選が進められている。

 動きだしていた大型公共工事を中止した市長とストップされた市議会。ともに住民に選ばれた二元の論戦が、6月22日からの6月定例会で白熱するに違いない。