サン・マイクロシステムズやシスコシステムズの日本法人代表を務められた松本孝利さんに、インターネット市場がまだない黎明期、日本シスコシステムズをいかに立ち上げビジネスを軌道に乗せたのか、その間におこったご家族の病気や心から信頼できる上司との関係なども含めて伺っていきます。
(ライター:福田滉平)
シスコの三顧の礼に心を動かされる
朝倉祐介(シニフィアン共同代表。以下、朝倉):そこから、何がきっかけでシスコの日本事業を立ち上げることになったんですか?
日本サンマイクロシステムズ(株)、日本シスコシステムズ(株)等をそれぞれ設立し、同時に代表取締役社長就任。シスコシステムズでは米国本社のアジア担当副社長、日本法人会長を歴任。その後、慶應義塾大学大学院、政策・メディア研究科教授(~2002年9月)。法政大学ビジネススクール客員教授(~2012年)、法政大学理工学部教授(~2012年)、法政大学理事(~2008年)、法政大学名誉博士(2001年)
松本孝利氏(以下、松本):SSAを経営している最中に、いきなりシスコのジョン・チェンバースの使いがやってきたんです。「日本法人を松本さんにやってほしい」と。「どうして僕のことを知ってるんですか?」と聞くと、「シリコンバレーで、松本に頼むと事業が成功するという噂を聞いた」と言うんです。やっぱり、人がチャンスを与えてくれるんですね。
ただ、僕はものすごく興味がありましたが、SSAには30人も社員がいたので、彼らを置いていくわけにはいかなかった。本社の社長にも悪いなと。なのでその時は断ったんですが、3ヵ月後に彼がまたやって来たんです。「もう一回考え直さないか」と。そこでも、やっぱり決めきれなくて断ったら、9ヵ月後にまた来た。
朝倉:まさに、三顧の礼ですね。
松本:そこでも断ったら、1年後にまた来たんです。「断っただろ。行くわけないんだから」と言うと、「今日は誘いに来たんじゃない、報告に来たんだ」と言うんです。「お前に断られたから、他の社長候補を見つけた。優秀なやつで来週契約するんだ」と。その人は、僕がよく知っている人だったんですよ。すると急に、僕はこの機会が惜しくなってきたんでしょうね(笑)。「シスコに入るつもりはないけど、一度本社を見学したい」って言うと、彼は「もちろん!」と答えたんですね。
当時、チェンバースは副社長だったんですが、空港まで彼がみずから迎えに来てくれた。シスコの本社に到着すると大きな横断幕で「WELCOME」って掲げていて、びっくりしました。そしてオフィスに行ったら、いきなり全VPと面会させられたんです。「僕は面接受けに来たんじゃない」って言ったら、「いや面接じゃないんだ。みんな話したがってるんだ」って。これが結局、面接になっちゃったんです。最後に、ジョン・モーグリッジという社長と話をして、この会社に夢中になってしまいました。
長いことコンピュータ業界にいると、次に何が起こるか予想がつくんですよ。80年代のARPA Network(世界で初めて運用されたパケット通信ネットワーク。インターネットの起源)は、DECで経験しているので、ARPAがメインになるんだったら、これはとんでもないことが起きると思った。おまけに、チェンバースの言っていた「インターネットが世界を変える」って考え方には完全に同感だったんですよ。で、シスコの社長を引き受けてしまいました。人生って面白いですね。
市場を生み出すことから始まったシスコのビジネス
朝倉:シスコには、まだ日本に市場がないところから事業に携わられたわけですよね。
松本:シスコのスタート時は、日本にはインターネット市場がほとんどない状態でした。ルーターを売るには、インターネットのマーケットを広げるしかなかったんです。
1993年、インターネットの普及促進のため、東大大型計算機センターの石田晴久先生と村井純さんが中心になり、すべてのコンピュータメーカー等に参加してもらって、日本インターネット協会を作ることになりました。知名度が上がるとマーケットが広がりますからね。このとき僕は石田先生(初代会長)の指示で、インターネットの教育への利用を促進する、教育部会長に就任しました。
同じ年、村井純さんとアメリカの現状視察に行き、アメリカのサービス・プロバイダを回ったんです。その帰りの飛行機の中で、「サービス・プロバイダをつくらないと、いつまで経ってもインターネットは日本に広がらないよな」って話をして、そこから、村井さんが中心になって日本で最初のインターネット・サービスプロバイダーであるIIJ企画(現在の株式会社インターネットイニシアティブ)を作ることになったんです。マーケットを作るって、本当にそこからなんですよ。このときはワクワクしてましたね。楽しかったです。
朝倉:その後、ソフトバンクの孫正義さんとシスコのジョイント・ベンチャーを立ち上げられていますね。
松本:そうです。このジョイント・ベンチャーの次の年、95年に日本ではインターネットが爆発的ブームになりました。
生涯最高の上司、ジョン・チェンバース
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松本:シスコのジョイント・ベンチャーの設立が終わった頃、妻に乳ガンが見つかって、医者から余命3ヵ月と言われました。当時は毎日4時間睡眠で働いていたので、最後は彼女のそばにいてやりたいと思って、辞表を出したんです。
辞めると言ったら、チェンバースから説得されました。「辞めなくていいから、奥さんのそばに最後まで付き添ってやりなさい。給料、ポジションは何も変えない」と言ってくれたんです。さらに毎週、チェンバースから「大丈夫か」と電話がかかってきました。感動して、何回泣いたか分からない。素晴らしい人間性を持った人です。あんな上司には生涯会えないと思いましたね。
妻が亡くなった96年に、ワールドワイド・セールスミーティングという、全世界からVPとカントリー・マネージャーが集まるミーティングが、メキシコのアカプルコであったんです。最初は、参加を断りました。「まだ小学生と中学生の子どもたちを置いて行けない」と。するとチェンバースは、「子どもたちも連れてこい」と言うんです。誰も、子どもを連れてくる人なんていないのに。驚いたことに、チェンバースは全世界のセールスに僕の子どもたちを紹介しました(笑)。それくらい、彼とはいい関係でしたね。もちろん、日本の業績があったからだと思います。日本の社員がアメリカに出張すると、チェンバースが「日本は素晴らしい、素晴らしい」とみんなの前で言ってくれるから、みんなモチベーションが上がって帰って来ていましたよ。
朝倉:その後、シスコのアジア副社長になられたんですね。
松本:当時の僕は、妻を失って気持ちが沈んでいました。生まれて初めて、生きているのが嫌になった。そういう状況を見かねて、チェンバースが「お前、元気ないな。悩んでるんだろう」と声をかけてくれたんです。うなずくと、「よし、悩まないようにしてやろう」と言い出したんです。「暇があるから、悩むんだ」と。そして、アジアを統括するように言われた。96年に本社のアジア担当副社長に就任し、中国からインドまでを統括することになりました。
それから、月の半分はほとんど海外にいて、アジア各国を飛び回ってました。
朝倉:その後、シスコをお辞めになって慶応義塾大学のSFCの教授になられていますね。
松本:99年、シスコでやりたかったことをほぼやり終え、次に何をやろうかと考えていた頃、ある日、村井純さんに慶応義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)にある大学院、政策・メディア研究科の教授に誘われて、2000年4月に就任しました。人生って、本当にドラマティックです。
また、この頃に大前研一さんともお会いしました。お会いしてすぐ意気投合してしまいました。
朝倉:そうした出会いから、大前研一さんが学長として開学なさったビジネス・ブレークスルー大学大学院で、今は教授を務めてらっしゃるわけですね。
松本:そうです。今になって振り返ってみると、かなり密度の濃い人生でしたね。
一回しか無い人生、やりたいことはすべてやるべき
松本:大前研一さんの言っている人生論が、僕は好きなんです。「一回しか無い人生、やりたいことはすべてやれ」と。それを読んで、僕もそういう意識で生きてきたな、と感じます。 30代前半の頃、僕は体が弱く病気がちでした。そのせいか、いつも異常なほど死を恐れていました。ある時、僕はなぜこんなに死を恐れているのだろう?と考えはじめ、ハッと気がついた。「そうか、まだやりたいことを何もやっていないからでは?」と。そこで、仕事でもプライベートでも遊びでも、やりたいことは他人に迷惑をかけない範囲なら仮に常識から外れても、できる限りやろうと決めたのです。そして、人生の黄昏を迎えた今、この考えはやはり正しかったように思います。
松本:朝倉さんは、まだ死ぬのが怖いでしょう? 怖いうちは、まだまだやるべきことがある、ということです。
朝倉:怖いですね。まだまだ未練だらけです(笑)
コンピュータやインターネットの普及を、身をもって経験し後押しされてきたお話、本当にダイナミックですね。小さくまとまっていてはいかんな、と改めて感じました。今日はありがとうございました!
*本記事は、株式公開後も精力的に発展を目指す“ポストIPO・スタートアップ”を応援するシニフィアンのオウンドメディア「Signifiant Style」で2017年11月21日に掲載された内容です。