TBSラジオ『Session-22』でパーソナリティを務め、日々、日本の課題に向き合い続けてきた荻上チキによる新刊『日本の大問題――残酷な日本の未来を変える22の方法』が7月19日に刊行された。【経済】【政治】【外交】【治安】【メディア】【教育】――どこをみても「問題だらけ」のいまの日本の現状と、その未来を変えるための22の対応策がまとめられた同書のエッセンスを紹介していきます。
きっかけは「55年体制」の崩壊
93年の政権交代以降、自民党の安定政権というものが崩れていきました。その直接的な背景には、90年代に入って、支持政党を持つ人の割合が一気に激減したことが挙げられます。つまり、浮動層(無党派層)が増加をしたのです。
なぜ、浮動層が増えたのか。いくつか理由が考えられますが、最大の理由は、低成長によって「配れるパイが減った」ことが大きい。それを象徴するのが「族議員の衰退」です。
族議員というシステムは、72年以降、田中(角栄)内閣が誕生してから、田中角栄がその手腕を駆使して意図的に作り上げた官僚操縦システムです。田中角栄は、党内・派閥内議員を各省庁に割り当てることで、地方の圧力団体と省庁の口利きを行い、票田を確保しようと目論みました。そうしてできたのが、族議員というスタイルです。
「政治とカネ」のイメージが強いこの時期の政治スタイルは、高度経済成長の時期を終え、潤沢な予算を確保することが難しくなった安定成長の時期において、その効果を発揮し続けてきたものです。
「族議員」の衰退
族議員は、地元の圧力団体に対し、「自分ならこれだけの予算をとってこれます」とアピールし、圧力団体の支持を得る。そして、圧力団体からの陳情を受けるようになった族議員は、政府・省庁に対し、その要望を通すようにと働きかける。いかに特定分野に対して便宜を図るか。そのためにいかに根回しをするか。これが族議員の腕の見せどころでした。
当時の自民党内には、派閥ごとの対立というものが存在しており、各派閥ごとに得意分野の「族」が異なっていたりもします。そのため、派閥が入れ替わることで、特定の「族」が力を発揮しやすくなったりということが起こっていました。
当時の政治は、こういったレジーム(体制)の渦中にありました。この時、政治家にとっての戦いの話は、政党間の対立ではなく、自民党内の派閥争いにこそ、その主戦場がありました。自分の派閥の中からいかに多くの議員を出すかが、選挙の最大の争点になっていたのです。
選挙制度が、現在のような小選挙区制ではなく、中選挙区制であったことも、その派閥間競争の必要性を強化したともいわれています。
中選挙区では、ひとつの選挙区から、自民党の議員が3人、4人と出馬するため、派閥内で応援合戦をしたり、資金の融通をしたりしていました。派閥のボスは、自分が党首となり首相となった暁には、派閥内の議員たちにポストを配る。そのことで派閥内の族議員は、ますます地元の圧力団体にいい顔をすることができた時代だということです。
このような、党内派閥政治+族議員の配り合い競争という名の「安定成長レジーム」は、田中内閣以降も長らく続いていきます。しかし90年代に入って、明らかにそのレジームでは、効果を発揮できなくなってきました。
日本経済は90年代の前期ぐらいから低成長期に入っていきます。そうすると、低成長社会ですから、再分配することのできる予算自体が減ってしまう。
しかも、将来的には高齢化が見えているため、特定分野への支出は膨らんでいくことが推測できる一方で、少子化により税収が減少していく。