東日本大震災後、
「1週間、会社に来てはいけない」でわかったこと
2011年のオフィス移転も、当初からフレキシブルな働き方がすぐに行われたというわけではなかった。小柳津氏は言う。
「組織の習慣は、そんなに簡単には変わらないんです。私みたいな昭和のオジサンがいっぱいいるわけですから。私は推進チームとしていろんなことをやっていきましたが、最もインパクトがあるのは、やっぱり経験なんです。やってみることで、有効性や利便性を実感できる。有効性はやってみないとわからないし、対処方法もやってみないと現実的なレベルはよくわからないんです。それに気づいたのが、東日本大震災だったんです」
震災が起きたのが、金曜日。土曜日に当時の社長、樋口氏から全社員に1週間は会社に来ないようにというメールが送られた。樋口氏が強烈な危機感のもとで大胆なリーダーシップを発揮したのが、このときだった。小柳津氏は続ける。
「会社に来ないけど、臨時休業でも自宅待機でもない。月曜の朝からすべての業務を再開します、とね。なぜなら、我々はどこにいても仕事ができる環境があるはずだと。よく覚えていますが、これには推進チームの私ですらびっくりしました」
なぜなら、やったことがなかったからだ。想定したことも、練習したこともない。全員が会社に行かないのである。
「月曜日火曜日は、まだ手探りでドキドキしていました。大丈夫かなと。でも、全員が大阪に出張したら、品川のビルには誰も行かないわけです。極論をいえばそういうことです」
そして水曜日、木曜日が過ぎた。
「ここまで来ると、これはいいな、ということに気づくわけです。出勤もしませんから、ギュウギュウ詰めの電車に乗る必要もない。テレワークならスーツも着なくていい。女性からは、お化粧しないってラクという声も聞こえました。金曜日には、ぜひ来週も続けたいという声が次々に上がりました。社長だけでも、推進者だけでも、外回りしている営業だけでもなく、全員体験した、というのがインパクトが大きかった」
そこで、翌年に1日、翌々年には3日、自社単独でテレワークの日を作った。
「台風も大雪も地震も来ていないんですが、マイクロソフト社員に限っては、仕事くらいの用事で出社してはいけない、と。そうしたら、面白い、とたくさん取材をお受けするようになって」
小柳津氏は1995年に日本マイクロソフトに入社している。それまでは日本企業で汎用機ビジネスに携わっていた。汎用機メーカーが数千万円、1億円かけてやっていたことが、数百万円でできるWindows Serverの登場で、世界が変わると感じた。
以降、マイクロソフトでキャリアを積み重ねていくが、もとよりマイクロソフトと働き方改革は10年以上前から親和性が高かったのだと語る。
「ちょうどサーバー製品を拡張していく時期でした。昔はデータベースとMSメールしかなかったところに、OutlookやExchangeという世界観が出てきて、グループウェアやシェアポイントと、だんだんコラボレーション領域のサービスを広げていくような黎明期でした。このときに、ワークスタイルという入り口を使ったんです」
グループウェアはあくまでITの話。エンドユーザーにとってのビジネスニーズではない。しかもマイクロソフトのグループウェアは広範囲だった。一切合切いろんなことをワンパッケージで表現できる言葉はないかと使い始めたのが、ワークスタイルの改革というシナリオだった。
「これを始めたときに気がついたのは、製品を紹介するよりもマイクロソフトの紹介が求められていたことです。マイクロソフトの製品以上に、Windows 95を出して彗星のように成長を遂げたマイクロソフトのビジネスモデルや、オペレーションスタイルや働き方についての話を聞きたいという方が多かった。それで、ずっとこの立場から私はメッセージを出しているんです。我々のコミュニケーションの仕方、我々のナレッジマネジメントについて話しています」
働き方改革については、本質を語らなければいけないと感じているという。
「何のためにやるのか、ということです。それは、働きづらい人のためのお助けプログラムではない。結果的にそうなるのは構いませんが、本来の目的は会社が儲かるためです。経営戦略なんです」