実は、日銀が福井俊彦総裁時代に、量的緩和策からの正常化を進めた際もそうだった。

 米ITバブルの崩壊による景気の悪化を受けて、日銀は01年3月、「消費者物価(CPI)が前年比0%以上に安定的になるまで」という時間軸を掲げ、日銀当座預金残高を誘導目標にした最初の量的緩和策に踏み出した。

 その後、02年から景気が回復、「戦後最長景気」へと進んでいく過程で、量的緩和策の解除(06年3月)に動いた際に、景気や物価動向に関する判断が政府と分かれる中で、将来の見通しから金融政策を変える「先読み政策」と称してやった手法がそうだった。

 この時も、短期市場が機能不全になるなどの、ゼロ金利が長期化した副作用を強調する一方で、金融緩和の維持を求める政治に配慮して時には利上げを見送るなど、政策の方向感を曖昧にしながら金利引き上げを進めていった。

 量的緩和策を解除した当時の小泉内閣の官房長官だったのが、安倍晋三首相だ。この時、政府を押し切り日銀ペースで金融正常化を進めたことが、安倍首相が日銀に対して不信感を持つようになったきっかけだったといわれている。

日銀の受けた“トラウマ”
政権とのあつれきや円高に配慮

 一方で日銀にとっても、速水優総裁時代のゼロ金利解除に続いて、量的緩和解除で政府との関係を悪化させたことが“トラウマ”となり、政府とのあつれきを避けることを過剰に意識するようになった。

 さらに日銀は、逆の意味でもトラウマを負うことになった。その後、政権に配慮しながら金融政策を進めたため、景気拡大が長く続いたにもかかわらず、政策金利を最高で0.5%までしか戻せなかったからだ。

 そのため、その後に起きたリーマンショックやそれを契機にした超円高に際して、利下げの余地が少なくなり、再び、ゼロ金利のもとで「非伝統的」な政策に手を染めざるを得なくなった。

 ゼロ金利解除の際に日銀で企画課長を務め、量的緩和からの正常化当時は企画局長として、出口シナリオを描いた1人が雨宮正佳氏。現在、黒田日銀の政策運営を主導する副総裁だ。

 その後、各国中央銀行の手法は、透明性やルールを重視するものに変わってきた。だが、雨宮副総裁は当時と同じように、政策の方向感を曖昧にし政権とのあつれきを避けながら、異次元緩和策の「出口」を探っているように見える。