当時、仕事相手の対外貿易公司の人のお給料は月数千円に満たない。

 就職前は、中国の各地人も台湾人も香港人も各国華僑も区別が付いておらず「お金持ちの華僑を捕まえて、タイガーバームガーデンでシュロの左うちわや」などと言っていたのだが、中国に出張して、事務所のあった天津ハイアットで一緒にお昼を食べると、いつも私が払っていた。

 ランチ一回で相手の月給が飛ぶからである。

 このころの中国人は心のウチはともかく、政治的発言はしなかった。祖国はいろいろ遅れており、日本との圧倒的な経済格差にひれ伏さざるをえない。臥薪嘗胆であったと今は推測する。

 一方、日本人は中国人と接すると、“建前”はともかく、見下せて“いい気分”になった時代である。日本人の対中感情は非常に良好だった。贖罪意識もあり巨額のODAに反対する人はいなかった。日本の年配の方々は、この時代の“中国”が更新されていない人が多い。

 その後、私は作家を目指して会社を辞めた。そして3年あまり後に『中国てなもんや商社』(文藝春秋)という処女作を出した。それは松竹で映画になって東京に行って執筆活動をしていたのだが、2001年9月に北京に来た。

留学のお出迎えは
旧日本軍の虐殺写真

002年当時の北京大学での「反日教育」の展示2002年当時の北京大学での「反日教育」の展示 Photo:H.T.

  最初は対外経済貿易大学で語学を一年やり、そのあと北京大学の経済学部に編入した。

 今回、安倍首相も北京大学の学生との交流が予定されている。

 当時、新入生歓迎の9月の北京大学のキャンパスで待っていたのは、戦争中の旧日本軍による過激な虐殺写真と日本刀の展示である。三角地という張り紙広場のような場所で、そこで中国人学生たちが次々と日本を過激に罵(ののし)る言葉をノートに書き込んでいく。

 大学内でやっていた日本研究の講座に出れば、中国人で満員だった。日本人は私一人。終わると真っ暗な校庭で取り囲まれて吊(つる)し上げというか、“質問攻め”にあった。