人間には与えられた才能を100%使う強い義務がある

 タラントのたとえは厳しい話で、その残酷さに惹きつけられた二人の人物がいる。イギリスの詩人ジョン・ミルトンと文学者サミュエル・ジョンソンだ。二人はタラントのたとえを謙虚に受け止め、このたとえを使って価値がどこでどのように生み出されるかを説明している。

マタイによる福音書の中で、イエス・キリストは最後の審判に備えて、弟子たちに一連のたとえ話をする。その中の一つが「タラントのたとえ」だ。ある主人が旅に出る際、8タラントの財産を3人の召使いに預けた。一人には5タラント、もう一人には2タラント、そして最後の一人に1タラントを、「能力に応じて」分けた。

 主人が旅から戻ると、二人の召使いは預かったタラントを商売に使い、それぞれ元手の2倍の10タラントと4タラントに増やしていた。主人、つまり神は二人に「良き忠実なしもべよ、よくやった。お前は忠実であった……私と一緒に喜んでくれ」と言った。

 この二人の召使いはタラントをそのまま手元に置き、神の国に入ることを許される。しかし、1タラントしかもらえなかった3番目の召使いは、神にこう打ち明ける。「私は恐ろしさのあまり、地中にタラントを埋めて隠しておきました。ここにあなたのお金がございます」と言って1タラントを返す。

 神は喜ばなかった。「銀行に預けておけば、帰ったときに金利と共に私の金を受け取れたのに」。罰として、神はそのかわいそうな召使いからタラントを取り上げ、10タラントを持つ召使いに渡した。

「持てる者には、より多くが与えられ、ますます豊かになるであろう。しかし、持たざる者は、持っているものまで取り上げられるであろう」。そして神は究極の罰を下す。「その役立たずのしもべを、外の暗い所に追い出すがよい。そこで彼は泣き、歯ぎしりするであろう」。いちばん貧しい召使いはタラントを奪われ、神の国から追放された。このしもべにとってはふんだりけったりだ。

 私はこのたとえ話に納得できない点があるのだが、それでも言いたいことはわかる。誰にでも、生まれながらに与えられた才能や能力がある。だが、才能が平等に与えられているわけではない。そしてその贈り物には、大きな価値がある。

 何よりも、人は与えられた力を100パーセント発揮しなければならない。人間はその贈り物を預かった受託者であり、それを運用する義務がある。人生のいずれかの時点で、私たちの誰もが、その才能をどう使ったかの責任を問われる。恐れの中に生き、その才能を自分からも世界からも奪ってしまうのは、罪である。