忘れてしまったことは仕方ない
私の父は晩年アルツハイマー型の認知症を患いました。この病気はずっと悪いわけではありません。ときどき霧が晴れたように頭がスッキリする日が訪れるのです。
そんな状態のとき、父がこんなことを言いました。「忘れてしまったことは仕方ない」と。父がそのとき言いたかったことはこういうことだと思います。父は私の母、つまり自分の妻のことを忘れてしまっていました。母は49歳のとき脳梗塞で亡くなったのですが、認知症になった父はそのことも含めて忘れてしまったのです。自分にはかつて妻がいたこと、その妻はずいぶん前に亡くなり、その後自分は一人で生きて80歳を超えたということを覚えていることが父にとって幸福なことだとは思いません。父もそう思って過去の記憶を封印したのでしょう。
しかし、少し霧が晴れたある日ふと思い出したのです。とはいえ、鮮明に母のことを思い出せたわけではなく、おぼろげな記憶だったのでしょう。そのとき「忘れてしまったことは仕方ない」と父が言ったわけです。それは諦めというよりは覚悟だと思います。忘れたという事実を受け入れたうえで生きていこうという。
認知症という病気を可哀想だと思う人は多いでしょうが、ひょっとすると人間の生き方の理想かもしれません。周りの人は、たとえば昔のアルバムを見せて、「これがお母さんよ」などと言いたくなるでしょう。しかし、本人が過去の記憶を封印しているとしたら、無理やり思い出させるようなことをすべきなのか。我々のほうが、病気ではなくても過去を手放すことを考えるべきなのかもしれません。
未来は端的にない
「今ここを生きる」ということでは、当然ながら未来もテーマになります。未来は「未だ来たらず」と書きますが、未だ来ていないというより「未来は端的にない」と考えるべきです。
我々は過去のことを思い出して後悔します。子育てや介護に関わってこられた方は多いと思いますが、そういうことは後悔の集大成のようなものです。あのときこうすればよかった、あのときあれができなくて残念だと。しかし変えられない以上、過去を手放すしかありません。
未来についてもいらぬことを考えると不安になります。不安という感情を手放すためには、明日のことを思い煩ってはいけないのです。
あるご婦人が講演会で質問されたことがあります。その方の夫が大病を患っていて、今は幸い小康状態を保っているものの、医者からは必ず再発すると言われていると。そこで、どういう思いでこれから夫と生きていけばいいでしょうかという相談でした。答えは極めてシンプルです。再発するかしないか、あるいはそれがいつのことかは人間には決められません。だとすれば、できることは明日を思い煩わず、今日という日を夫と一緒に仲良く生きることです。「今ここを生きる」というのはそういう意味です。
そのように考えて過去を手放し、未来を手放し、今日という日を精いっぱい生きる──それができれば人は幸せになれるのだと思います。