今やインターネットの普及により、家庭でこれを利用して米、野菜、加工食品を購入することは珍しくもなくなった。美味しい食品がリーズナブルな値段で、しかも運ぶ手間さえ省ける、と良いことづくめだ。しかし、魚の取引にこうしたダイレクト販売の方式が活用され、成功したという話はついぞ聞かない。「何がどのくらい捕獲できるのか見通しが立たない」「鮮度の劣化が早い」「配達してもらっても自分たちで魚をさばけない」――その魚特有の性質が、他の食品ならば比較的容易にロールアウトできる仕組みの実現を阻む。
では日本の漁業は、今後も市場間取引を前提としてあり続けるのだろうか。
答えは、ノーだろう。前回も述べたように、現場は限界に達している。
自前の小型船で流し網を操る、気仙沼市唐桑町在住の漁師と会った。彼は、気仙沼の小型船の中でトップクラスの水揚げを誇る、一流の漁業生産者だ。ひょんなことから、彼の年収を聞いて驚いた。魚の売り上げから燃料代など経費を除けば、その額はわずか250万円という。背景にあるのは、低価格の輸入品の普及や、一定価格での販売に重きを置く量販店、そしてリーマンショック以来加速するデフレ経済。消費者に負担を転嫁できない現システムでしわ寄せを受けるのは、彼のような小規模生産者である。
これまでのシステムでは、やっていけない。他の食品の模倣では、魚に新しい販売方式の活路を見出すこともできない。そして、近海の漁業資源の枯渇と、震災の壊滅的な打撃による痛手は大きい。漁師たちは、幾重にも折り重なる障壁に未来を阻まれている。
障壁の一つは日本の「偏食」文化
ところで、魚を一番美味しく食べる方法を問われたら、皆さんは何と答えるだろうか。恐らく、多くの方が「刺身」あるいは「寿司」と回答するのではないか。刺身や寿司のような生食は、近年のグローバルな普及のさまを見ても、優れた魚の食べ方であることに疑いの余地はなさそうだ。アイスランドで寿司が人気を博していることも、前回ご紹介したとおりである。
今でこそ世界中で食されるようになった寿司だが、そもそも生の魚を食べる行為自体が可能な地域は、世界でも多くない。SASHIMI、SUSHI――流通の発達した都市ならば、どこでもこの二つの単語が世界各国でそのまま使われている。その事実こそ、魚を生で食す食べ方が、いかに多くの文化にとって新しいことか、を物語っている。少量多品種、生鮮、一尾ものの流通――水産庁が指摘する日本の水産業の特徴だ。世界で寿司が食べられるようになったといっても、よくよく見れば、それが可能なのは、大きな経済力と生鮮の流通ができる豊かな都市のみなのである。
つまり、私たちが当たり前のように考える「生食至上主義」は、いったん日本の外から見てみれば「偏食」ともとれる。