欧米圏での反響から見えることとは?
――『嫌われる勇気』は今や世界20数ヵ国で翻訳出版が決まっています。そして今年は念願だった欧米圏での出版も続々と実現し、絶賛の声も多く聞こえてきています。欧米の方に読まれ始めたことについて、どのように感じていますか。
古賀 僕自身がアドラーはもちろん、フロイトやユングといった海外の人たちの思想を翻訳された本から学び、いろいろ考えてきました。その思考の結晶が今、『嫌われる勇気』という本になって逆輸入されるようなかたちで海外に行き、ちゃんと支持されているというのは非常に嬉しいです。
いつも思うのは、どの時代であれ、どんな国であれ、人間の悩みは同じなんだなということです。それが多くの国で読まれることによって証明できているのかな、と思っています。『嫌われる勇気』は、執筆当時から世界で読まれる本にしたいとずっと思っていたので、5年かかってやっとここまで来たな、という実感が出てきました。
――海外の読者レビューを読むと、非常に深く読み込まれていると感じますね。
古賀 たしかに欧米では、アドラーの本質的なところを議論しているレビューがあると感じます。日本の3年後ぐらいのレビューがもう出ているなと。アドラーに対する認知がすでにあったので、本質的な議論にいきやすかったのかもしれませんね。
岸見 アドラーの思想は非常に普遍的ですが、欧米の人といえどもアドラーを知っている人はさほど多くなかったと思います。ただ、日本とは異なり『嫌われる勇気』の感想にソクラテスやストア哲学の融合といった言葉が出てくるのです。本書中にソクラテスは出てくるのでそれは当然としても、「ストア哲学」が出てくるというのはしっかり読まれているなと感じました。
その意味では、欧米の読者はベーター読書に慣れているのかもしれません。表層だけではなく、この文字の背後にあるものは何かというところまで読み取ろうとする。もちろんすべての読者がそうではないにせよ、そういう人が比較的多いのかなと。
私はこの点から、日本における教養について大きな問いを突きつけられたような気がしています。たとえば今日本では、大学での人文科学系の教育がどんどん軽視されてきています。哲学科と銘打つ学部は減り、国際なんとか学部、総合なんとか学部などが新設される。英語学科はあっても英文学科がなくなってきている。このままだと「シェイクスピアをやっています」といった人はほとんどいなくなるのではないでしょうか。
――たしかに人文科学系をはじめ、大学教育に関する予算はどんどん減らされています。
岸見 そういうなかで、『嫌われる勇気』も『幸せになる勇気』も時代に逆行するような教養の本です。この数年間で哲学ブームといったことがもし起きているのであれば、『嫌われる勇気』もその一端を担ってきたのではないでしょうか。実用化にばかり関心が向く流れを是非食い止めたいですね。欧米読者のコメントによってその問題が目の前に突き付けられたようで、なんとかしたいという思いが強くあります。
古賀 日本のレビューや感想を読むと、『嫌われる勇気』について、会話形式、対談形式、あるいは物語形式と書いているレビューが目立ちます。でも、おそらく欧米の読者の方はあのスタイルを見ると、「ああ、これはプラトンだ」ってわかるんだと思います。日本と欧米では教養とされるものの中身が違うのかもしれませんが、あれは欧米の人たちにとってはなじみ深いスタイルなのでしょう。もしかしたら「ああ、大学のときにこういう本を読まされたな」と感じる懐かしい形式なのかもしれないですね。