諭吉少年が間違えた、臨在感の本当の発生源とは

 諭吉少年の一連の洞察の中に、どんな間違いがあったのでしょう。最大の問題点(一つ目の間違い)は、諭吉少年が臨在感を「ただの気の迷い」と考えたことです。臨在感そのものを否定して、発生理由を一切探求しなかったのです。

 二つ目の重大な間違いは、臨在感はモノ(この場合はお稲荷様の御神体である石)が生み出していると考えたことです。だからこそ、御神体の石を、別の石に置き替えたのに、村人が祭りを行い、祈りをささげるのを可笑しく思ったのでした。

 しかし、本当に間違っていたのは実は諭吉少年でした。この場合の臨在感は、物質からではなく、祈る人の心から生まれていたからです。

 お稲荷様を祭り、祈る人たちには、石のすり替えは本質的に関係ありません。彼らの祈り、心にある悩みの対極としての救済への希望の投影が、臨在感の根源的な発生源だからです。つまり臨在感は、悩みや願いを持つ人々の心が起点なのです。

 御神体の木の札や石は、あくまでも脇役としての舞台装置にすぎなかったのです。

 先の殿さまの名前が書かれた紙片の話では、諭吉少年にはただの紙でも、兄の三之助は自らが仕える殿さまの名前が書かれた紙に、臨在感を持っていました。その意味で、諭吉少年は(紙片を通じて)兄三之助の気持ちを踏んでしまったのです。

空気は臨在感と結び付いて、より強く人を拘束する

 山本氏は、研究者がカドミウム棒をなめた現場に、日本人記者団だけでなく、科学的知識以外は持たない、外国人記者たちも同席したらどうなったかと書いています。

 日本人記者団はのけぞって逃げ出した。何でもありませんと言って某氏はペロリと金属棒をナメた。この状態は、そこに同席した外国人記者団にとって、全く理解できない状態であろう(*6)。

 臨在感が、物体から発生しているなら、日本人記者団だけが恐怖を感じるのはおかしいはずです。しかし実際には、臨在感は人の心から発生しているのですから、カドミウムと感情的な結び付きのない外国人記者が、きょとんとするのは当然です。空気=前提は、感情と結び付けられることで人を強く拘束し始めるのです。

 山本氏は「物神化」、つまり単なるモノが神に変身してしまう現象は、この臨在感を起点としていると指摘します。

 カドミウム金属棒を御神体とする「カドミ神社」の存立は可能である、というよりむしろ、ある「場」にはすでに存立したのであり、昭和の福沢諭吉は、それが御神体ではありえないことを証明するため、ナメてみせたわけである(*7)。

 単なる前提である空気が、抵抗できない強力な拘束力に変貌する第一歩。それは対象と、人の心の中の恐れや崇拝の感情を結び付けることで生まれる、臨在感にあるのです。

(注)
*6 『「空気」の研究』P.42~43
*7 『「空気」の研究』P.44