「イワシの頭」にさえ日本人は支配されてしまう

 山本氏は、『「空気」の研究』で“イワシの頭も信心”ということわざを紹介しています。「イワシの頭も信心から」とは、一旦信じたら(本当は無意味でも)どんなものでもありがたく思えてしまう、ということを意味します。

 なぜ、イワシの頭も信心になるのかは、実は臨在感の構造で説明が可能です。

 イワシの頭を床の間に飾り、早朝から熱心に祈りをささげて一日を始めたとします。このルールを課した者が、もしその日偶然に何か良いことに巡り合えばどうなるでしょうか。

「この幸運はイワシの頭に祈ったからではないか?」という、因果関係の推察を人間はごく自然に行ってしまうのです。

 これが何度か続くと、最初は疑問を持っていた因果関係の推察=イワシの頭へ祈ることと自分の幸運が、固定的な因果関係だと信じ込み始めるのです。

 では、幸運ではなく、悪いことが起こった場合はどうなるのでしょうか。

 恐らく「今日はイワシの頭に祈る熱心さが足りなかったのだ」となるでしょう。しかし、実際にイワシの頭に毎朝祈ることで、次々と幸運が訪れるのでしょうか。

 現実的に考えるなら、「イワシの頭に毎朝祈ること」で、本人が良いことが起きる期待感を高め、日々の生活で「より熱心に幸運を探す」ことが、幸福感の増加に結び付いている構造だと言えます(幸運・不運が以前とまったく同じでも、本人の意識する方向が変わった)。

 開運グッズ、お守りなど、プラスの臨在感を提供する物が心理的な効果を持つのは、この臨在感の仕組みが背後にあるからでしょう(悪用の場合は霊感商法になる)。

なぜ日本の政治は、政策論争と関係ないことの応酬になるのか

 日本の政治議論で象徴的なのは、政策論争に特化せず、都合の悪い議論が立ち上がると、政治とは一切関係ない私生活の疑惑やスキャンダルが取り上げられて拡散し、政策論争ができなくなってしまうことです。

 論争の際でも相手の言葉の内容を批評せずに、相手に対するある種の描写の積み重ねで、何らかの印象を読者すなわち第三者に与え、その印象に相手を対応さすことによって、その論争に決着をつけてしまおうとする(*8)。

 家庭で問題を抱えている、男女間のスキャンダルなど、大衆が眉をひそめる話題を掘り起こしてマスコミで大々的に報道する。すると、重要な政治議論においてその人物が極めて正しいことを主張していても「○○をしているような人は悪い人」「家庭に問題があるのは、信用できない人」という因果関係の推察を簡単に誘発させてしまい、結局正しい政策論争は進展せず、論敵側は都合の悪い議論を葬ることができます。

 これは感情による因果関係の推察(○○に問題のある人は、他の分野でも信用できな
い)が、意図的に誘導されることで、日本人が簡単に操られる典型例です。